〈基礎に置かれる類〉の意義,要素,および想定根拠 McKirahan, Principles and Proofs #4

  • McKirahan, Richard D. Principles and Proofs: Aristotle's Theory of Demostrative Science. Princeton: Princeton University Press. 50-63.

本章では以下の箇所が検討される: A7 75a38-b20, A9 76a16-23, A32 88a31-88b29.


学問的原理の探究を,基礎に置かれる類 (ὑποκείμενον γένος) の検討から始める。

基礎に置かれる類は大略学問の主題となる事柄であり,基体と属性とからなる。基礎に置かれる類は任意のものではなく自然本性的であり,異なる種類の事柄は異なる類に属し,異なる類は異なる学問が扱う。(従って基礎に置かれる類は学問の同一性と個別化に資する。) また原理は単一の類の基体と属性に関わるので,異なる学問は異なる原理を有する。ただし二通りの例外があり,一つは公理ないしは共通原理,もう一つは下位の学問の原理である。

基礎に置かれる類説は学問相互の根本的分断を含意する。この説からの諸帰結は分断の内容を示している。

A10 75a38-b20

第一の帰結は証示の転移 (metabasis) がありえないことである。

だから,他の類から類を転移して〔事柄を〕証示することはできない。例えば幾何学的な事柄を算術的に〔証示する〕ように。〔…〕

だが算術的な論証はつねに,論証がそれについてであるところの類を持っており,他の論証も同様である。従って,論証が転移しようとするなら,端的にあるいは何らかの仕方で類が同一であることは必然である。他の仕方では不可能であることは明らかである。というのも,両端項と中項が同じ類からであることは必然であるから。というのも,もしそれ自体としてでなければ,付帯的であるだろうから。 反対の事柄が一つの知識に属することは幾何学によって証示されないし,他方二つの立方数〔の積〕が立方数であることも〕証示されない。ある知識によって別の知識に属する事柄を証示することもできない――例えば光学が幾何学的〔知識〕に関係し,和声学が算術的知識に関係するように,一方が他方の下にあるというように互いに関係するような事柄でない限りは。またある事柄が線について述定されるとき,例えば「直線は線の中で最も美しいか」あるいは「〔直線は〕曲線と反対であるか」のように,線である限りの線についてではない,つまり固有の原理から〔出てくる〕事柄である限りの線についてではないならば〔,それは幾何学によって証示されない〕。というのも,〔こうしたことは〕その固有の類である限りで述定されるのではなく,むしろ何らか共通のことである限りで述定されるのだから。

検討

太字部分 (75b7-12) が論証の骨子である。異なる学問は異なる基礎に置かれる類を持つので,前提や結論に出現する全ての項は同一の類に属しなければならない。

「というのも,もしそれ自体としてでなければ,付帯的であるだろうから」という省略的論証は A6 の二つの結論に依拠する。すなわち (1) 論証の前提や結論は項の自体的関係を主張する。(2) 関係が付帯的である iff. 関係が自体的でない。――つまりこの箇所の論証は「自体的に関係する項は同一の類に属する」という主張に〔暗黙のうちに〕基づいている。この主張を受け入れるべき理由を Ar. は与えていない。我々は後ほど論じる。

後半の諸例は以上の要点を闡明している。

A9 76a16-23

第二の帰結は,他の諸学の原理を証示する支配的学問 (master science) の不在である。

このことが明らかであれば,各々の固有な原理を証示できないということも明らかである。*1というのも,あれらが全ての事柄の原理になるだろうし,各々の事柄の知識は全てを支配するだろうから。というのも実際,より高い原因から知る人は,より一層知識するから。というのも,原因付けられない原因から知るとき,ひとはより先の事柄から知るから。従って,もしより一層そして最もよく知るなら,あの知識もより一層,そして最もよい知識であるだろう。だが論証は,先に述べたように幾何学的論証が機械学的あるいは光学に適用され,また算術的論証が和声学に適用されることの他には,他の類には適用されない。

訳注

  • 各々の固有な原理: i.e. 論証における結論の。
  • あれら: (究極的な) 原理。
  • 全ての: 結論 (or 結論 + 固有の原理)。
  • 各々の事柄の知識 (the scientific knowledge [or, science] of them): 究極原理の知識,あるいは究極原理に基づく知識 (だがこの場合 ἐξ が期待される),あるいは「それらが属した学問」(Mure)。
  • より高い: i.e. より先の。

検討

(1) 支配的学問の原理は,全学問の結論と原理の原理となる,(2) 全学問の結論 (の知識) は支配的学問の原理 (の知識) に基礎づけられる,と論じた上で,そうした支配的学問の可能性を棄却している。

A32 88a31-36

第三の帰結は,全ての証示 (proof) が単一の原理の集合に基礎づけられるわけではないことである。

というのも,全ての真なる事柄が同一の原理に属するわけではないから。というのも,多くの事柄の原理は類において異なるのであり,〔互いに〕適合もしないから。例えば単位が点に適合しないように。というのも,これらのあるものは措定を有さず,あるものは有するから。だが少なくとも,中項か上の項か下の項に適用すること,あるいは定義項のいくつかを内に有し,いくつかを外に有することが必然である。

検討

最終文は不明瞭ではあるが,異なる学問が異なる類を有するという教説に明らかに基づいている。

A32 88a36-b3

第四の帰結は,公理によって全結論を証示しえないことである。

しかし,共通の原理のうちで,何かが,そこから全てが証示されることになるものであることもありえない。「共通の」原理とは,例えば「全ては肯定するか否定するかである」のようなものである。というのも,あるものの類は様々であり,あるものは「どれだけか」に属し,あるものは「どのようか」に属して,それらの間で共通の事柄によって証示されるから。

検討

幾つかの鍵語が不明瞭であるために論証も明確でないが,要点はわかる。つまり,共通原理は特定の類の結論を導くのに充分ではないのである。例えば算術の結論は共通原理の他に算術的事実にも依拠しなければならない。類が区分されているからだ。

A32 88b17-21

他の箇所は,「結論が原理全体から証示される」という解釈の棄却である。

それはあまりに馬鹿馬鹿しいから。というのも,よく知られている数理科学においてこれは生じないし,分析において可能でもないから。というのも,無中項の前提命題は原理であり,異なる結論は,無中項の前提命題が付加的に受け入れられることで生じるから。だがもしひとが「無中項の第一の前提命題は同一の原理である」と言うなら,〔原理は〕各々の種において一つである。

訳注

  • よく知られている数理科学: i.e. 代数学幾何学
  • あまりに馬鹿馬鹿しい: e.g.「三角形の内角の和は 2R である」は (幾何学の範疇内でさえ) 全ての原理を用いてはいない。
  • 分析: P の証明を P の論証不可能な前提命題に遡って探求する手続き。
  • 第一の: Ross の強調に従う。

検討

冒頭二文は次のように主張する。(1) 例えば幾何学は全学問の全原理に依拠してはいない。(2) 幾何学の特定の命題の分析も幾何学の原理にしか行き着かない。(3) しかもその全体集合ではない。(これは Barnes 解釈とやや異なる。) 最後の一文は,Ar. が棄却した主張の擁護と,それに対する Ar. の簡潔な再反駁である。ここでも転移の不可能性が効いている。

A32 88b23-29

続いてこの解釈の修正版も反駁される。

「全ての事柄の原理が同類であるが,これらからはこれらが,あれらからはあれらが〔証示される〕」かどうかということが〔問題として〕残る。だが,このことはあり得ないことは明らかである。というのも,類について異なる事柄の原理は類について別の原理であることが証示されているから。というのも,原理は二通りであるから。〔すなわち〕「そこから」と「それに関して」。「そこから」の原理は共通であり,「それに関して」の原理は固有である。例えば数や大きさのように。

検討

対抗論者は直前の Ar. の論証を逆手に取る。ある命題が学問の全原理さえ用いなくて良いなら,学問を原理によって切り分けるべき理由はないのではないか。むしろ単一の学問に全論証的知識が属していると考えうるのではないか。これに対して Ar. は,「論証の全ての項は同じ類に属する」(A7) ことの帰結から反駁する。最後の一文は現に類において異なる原理を特定している。

基礎に置かれる類を構成するもの (composition)

基礎に置かれる類について,一見矛盾する主張がなされている。すなわち,学問の類は (1) 単一の類的性質 (single generic nature) (e.g. 数,空間量),(2) 単一の類的本質を具現化する個体やタイプ (諸々の数や空間量),(3) 基体 (subjects),(4) 自体的属性 (および派生的な基体)。さらに,(5) 基礎に置かれる類はそれ自体として属性を有する,(6) 論証の結論はそれ自体として類に属する,(7) 論証の全ての項は同一の類から出てくる,(8) 原理と結論は同一の類にある,(9) 学問は「その証示を類に関してなす」,とも述べられている。

だが,Ar. が基礎に置かれる類を気まぐれに特徴づけていると考える必要はない。まず 5-6, 8-9 は 7 の帰結と考えるべきである。また事物 (1-5) と項や命題 (6-9) を注意深く区別しないことは Ar. の特徴である。また 1-4 の特徴づけはどれも,「学問が関わるもの (what the science is about)」という,基礎に置かれる類の最も一般的な説明に適っている。5-6 も適当にパラフレーズできる。

基礎に置かれる類は,基体,属性,原理,結論等々の集まりであるが,単なる無秩序な集合ではなく,むしろ基体と属性のネットワークと見なされるべきである。論証的学問はこのネットワークを解明する。基体と属性の自体的関係もこのネットワークに含まれる。これは A4 で語られる「それ自体として」の最も厳密な用法をほんの少し拡張しただけの解釈であり,学問における事実と命題の役割を理に適った仕方で表現している。

基礎に置かれる類の解釈

では,諸科学が異なる類を有するという見解はいかにして哲学的に正当化されるのか。『後書』のテクストは積極的論証を含まないので,基礎に置かれる類の概念が Ar. の確立した理論と何らかの関係を有するか否かを考えることにする。もしそうなら,「基礎に置かれる類」の概念は場当たり的なものではなく,何らかのより大きな形而上学的見解に基づくことになろう。

第一に,基礎に置かれる類は (多くの解釈者が想定するように) 類-種分割により分節されたものだろうか。このとき基礎に置かれる類は科学の最高類 (summum genus) となる。この解釈を支持する事実としては,(1) 論証の基礎に置かれるものは普遍的であること (87b28-39),(2) Ar. による自然種とその下位分類の想定,(3) 基礎に置かれる類と基体は類-種同様,一方が他方に述定され,換位されないこと,(4) 基体を他のものと区別し,基体の偶有性でもないこと。さらに,(5) この解釈はそれ自体として関わる事物が同一の類に属するかを説明する。

他方,反論としては,(1) 単一の科学 (e.g. 生物学) が一つ以上の類に及びうること (尤もこれはそれほど深刻ではない),(2) 分割法が具体的な基体に適用しづらい場合があること,(3) 自体的属性は類-種配列において位置を占めないこと,4) 論証が明らかにする秩序が類-種関係に必ずしも即しないこと,(5) 論証的学問の理論は類-種関係を必要としないこと,が挙げられる。

第二の解釈は,「存在はただちに類を持ち,そのゆえに諸学もこれらの類に従う」(Meta. Γ) という教説と関係づけるものである。気を付けねばならないのは,Ar. は存在の各々の類を探求する単一の学問があると述べているわけではない,ということである。せいぜい「諸学は実在の何らかの自然な区分を反映している」という意味に受け取るべきである。例えば自然学は実体という大きな類の学問であり,幾何学は大きさを,算術は「限られた多数性」(いずれも量の種) を探求する。

このように解すれば,それ自体として関係する基体と属性が同一の類のうちにあるということも保証される。同一の基体を異なる学問が考察するとき,それらは異なる属性との自体的関係から考察する。

基礎に置かれる類が学問の個体化の原理であることは強調してもしすぎることはない。これは歴史的にはプラトン的見解 (Resp. VI) の棄却であり,また事柄としては専門化が科学的前進の鍵であるという宣言である。加えて,論証的学問の理論は,二次的水準における学問の統一性も主張している。

*1:McKirahan は οὐκ 以降を切り取っている。