トラシュマコスの慣例主義的解釈の擁護 Hourani, "Thrasymachus' Definition of Justice in Plato's Republic"
- George F. Hourani (1962) "Thrasymachus' Definition of Justice in Plato's Republic", Phronesis 7 (1), 110-120.
Θ. の正義の定義として,「強者の利益」がそれであるという解釈を退け,「法律への服従」がそれであるという解釈を支持する。
前半には説得力があるが,後半は怪しい。思うに「どちらが Θ. の真の定義か」という問いは一種の擬似問題ではないだろうか。Hourani 自身次のように的確に指摘している: "Like many other antagonists of Socrates in the dialogues, Thrasymachus is either ignorant or careless about the difference between definition and description." (p.112) そしてこれはソフィストとしての基本的性格を勘案すれば驚くべきことでもない。そうであってみれば,「定義」とは別の枠組みで Θ. の議論を捉える必要があると考えるのが自然と思う。
Θ. による正義の定義の候補として,(1) 「より強い者の利益」(2)「法律への服従」の二通りがある。両者が共に定義であることはありえない (反例が出てくるから)。Hourani は 2 を取る。これは Grote らが既に主張してきた立場でもあるが,Kerferd らの 1 の擁護論がある今では,より精細な論証を要する。
338c-339a
この箇所における Θ. による立場の表明は,対話篇において通常定義がなされる仕方とはかけ離れている。Θ. は定義の定立を超えて,総合的命題を立てている。言い換えれば定義と説明をきちんと区別していない。この箇所の Θ. の議論は,次のような現代の (仮想的な) 議論と類比的である。
A.「あなたは民主主義をどう定義しますか?」B.「民主主義とは愚か者による支配にほかならない。」A.「それはどういう意味ですか?」B.「つまり,民主主義とは多数派の支配を意味するが,多数派の人間というのは決まって愚かなのだ。」
ここでの B の最初の主張は定義ではない。*1これと同様に,Θ. の議論は次のように整理できる。
- 支配者はより強い者である。(政治的事実)
- 法律は支配者の利益のために定められる。(心理学的事実)
- 正義とは法律に従うことである。(定義)
結論――それゆえ定義は支配者の利益である。
3 を Θ. は明言していないが,これは論証に必要であり,かつ直後の Σ. との対話において肯定される。また Leg. 714c-d がこの解釈の傍証となる。
339b-341c
ここは慣例主義的 (conventionalist) 解釈にとって困難を呼び起こす箇所である。Θ. はクレイトポン [K.] の提案を退け,「支配者は過たない限りで支配者である」と主張する。Kerferd もこの箇所を自説の最大の論拠とする。
だが,Θ. は定義を制限しているだけだと解釈できる。K. の提案の拒否は説明を要するが,「無能な支配者が正義を決定できると認めたくなかった,テーゼの一般性を損なうことを恐れた,プラトンの議論進行上の都合その方がよかった*2」などが考えられる。
341c-343a
「正義の説明 (λόγος) がひっくり返った」のは何故か。正義と支配者の利益がここまでの議論で既に結び付けられてきたからである。
343a-344c
344c では「他人の利益」がもはや定義に擬装されていない。このことに読者が驚かないとすれば,それは,これまでの議論で既に準備されてきたためである。
344d-347c
「より強いものの利益」が正義の定義であったなら,「果たして正義は利益になるか否か」を問うこの箇所やその後の議論は意味をなさない。