εἰ ἔστι の問いの内容 Gómez-Lobo (1980) "The so-called question of existence in Aristotle, An. Post. 2. 1-2"

  • Alfonso Gómez-Lobo (1980) "The so-called question of existence in Aristotle, An. Post. 2. 1-2", The Review of Metaphysics 34. 71-89.

「『分析論後書』B巻1章の εἰ ἔστι は実在用法ではなく述定用法だと見なすべきだ」と主張する論考。一見するより尤もらしい。テクストを読みながら少し検討したい。


I

伝統的には, APo. 2.1 の問いの四区分は,以下のように解されてきた。

  1. τὸ ὅτι - 事実
  2. τὸ διότι - 原因・理由
  3. εἰ ἔστι - 実在
  4. τί ἐστι - 本質

a-b は合成物 (composites)*1,c-d は単純物 (simples)*2についての問いである。*3c-d に関わる事柄は,1章では主として実体である。(後にはそうとは限らない。) 他方 a-b は「特定の実体が特定の属性を持つか否か,またなぜ持つか」の探究と解するのが自然である。

「X があるか」の問いについては,X を単称指示表現と見なすか (Mansion),一般名辞と見なすかという選択肢がある。いずれにせよ,「ただ一つの項 (term) と実在を表す動詞がある」と解釈されてきた。

だがこの解釈は,APo. の後の議論と矛盾する。 2章では,これら全ての問いが中項の探究だとされる。a-b は問題ない。だが c について難問が生じる: 一つの項と「実在する」の間にどうして中項があり得ようか。

Ross, Tredennick は何とか従来の解釈を保持しようとする。「第1章で実体に言及した εἰ ἔστι や τί ἐστι の問いは,第2章では属性や出来事にずっと多く言及するようになったので,前者の言及がアリストテレスの頭の中からほとんど消え去ったのだ――その痕跡は残っているけれども」(Ross, 612)。だがこれは,第2章以降の τὰ ζητούμενα への数度の言及や 90a4-10 の実体の例への言及からして,尤もらしくない。従って別の解釈を取らなければならない。

もう一つの哲学的な反対根拠。 8章の "ταὐτὸν τὸ εἰδέναι τί ἐστι καὶ τὸ εἰδέναι τὸ αἴτιον τοῦ εἰ ἔστι" (93a4) を「本質を知っていることは,あるものの実在の原因を知っていることである」(Mansion) と解することはできない。本質が普遍的なら,それは実在を説明できない。(cf. Ar. のイデア論批判。) 他方,本質が個別的なら,個物は本質に先立ってあるはずである。(cf. Meta. 1071a21, 1033b7-8.)

II

表現 εἰ ἔστι は省略的である*4ために多義的である。以下の解釈がありうる。

  1. εἰ ἔστι には文が補われる。この場合は真理用法 (e.g. 1017b33)。
  2. εἰ ἔστι には独立の項が補われる。この場合は実在用法。
  3. εἰ ἔστι を「(それが) (F で) あるかどうか」と解する。つまり二重の補いを要する述定用法。

三つ目の用法を APo. において最初に εἰ ἔστι が出現する箇所 (71a24-27) によって例証する。〔省略。〕

なお,第2章冒頭の「中項があるかあらぬか」は明らかに実在用法である。それによって,c が述定用法であることが分かりにくくなっている。

c の問いは次のように導入される。"ἔνια δ᾽ ἄλλον τρόπον ζητοῦμεν, οἷον εἰ ἔστιν ἢ μὴ ἔστι κένταυρος ἢ θεός; τὸ δ᾽ εἰ ἔστιν ἢ μὴ ἁπλῶς λέγω, ἀλλ᾽ οὐκ εἰ λευκὸς ἢ μή." (89b31-33)

  • 後半部を「x が白いか否か」と解することには誰も異論はない。これは τὸ ὅτι の問いの例である。
  • 前半部を「y はケンタウロスや神であるかあらぬか」と著者は解する。y には指示詞が補われると考えられる。

従って a と c の区別は,実在用法と述定用法の区別ではなく,同一性と特徴づけの区別である。同一性言明の主語が言及されない理由はおそらく『オルガノン』における ὕλη の不在 (Ross, 79) に求められる。とはいえ他のテクストから示唆を得ることはできる: Meta. 7.17.1941b1-9, 9.7.1049a27-36.

III

以上の解釈には三つの異論がありうる。

導入部が示すのは「神の実在」という古典的問題ではないのか。 ―― 確かにソフィスト無神論の文脈に照らして読めば,そう考えるのは自然である。だが「人」との対で考えれば,「〜は神か人か」という設問はありうる (cf. Od. 17.484, Hdt. 1.65, Pl. Soph. 216a-d, Meta. 7.1.1028a15-18)。

では,ケンタウロスや山羊鹿の例はどうか。これらの実在について真剣な議論がなされた形跡はない。だからそれを態々問うことに意味はない。著者の解釈では,これらの例は意味をなす。種の事例 (instance) を認識することは, Ar. 的な定義の必須の条件であり,これらはこの条件が満たされない例だからである。*5

ἁπλῶς - ἐπὶ μέρους の対で考えると「ἁπλῶς にある」は「実在する」を意味するのではないか。 ―― 実は εἶναι についてはこの対比はミスリーディングである。本来この区別は γίγνεσθαι について立てられたものだからだ (GC 1.3)。γίγνεσθαι の場合「生じる / これこれになる」という日常的用法に自然に合致する。

さて γένεσις ἁπλῆ があった地点が τὸ ἁπλῶς ὄν である。だが無からは何も生じないのでアポリアーが生じる。結局 GC 1.3 の分析は γένεσις ἁπλῆ を「これこれの実体になること,別のこれこれの実体が消えること」と規定する。それゆえ,統語論的に無限定な εἶναι は内容上無限定ではないのである。*6

Phys. 3-4 の εἰ ἔστι は実在的ではないか。 ―― これは多分正しい。だが Phys. で問われている無限・場所・空虚・時間は中項へと分析できる対象ではない。従ってそれらの議論は APo. の解釈とは無関係である。

IV

以上の解釈は伝統的解釈の難所を解決する。第一に εἰ ἔστι が中項の探究であるということを説明できる。第二に,夜や月,図形の例が出てくることも説明できる。

以上の解釈のもとで,さらに二箇所に説明を与える必要がある。90a9-14. この箇所は Mure や Barnes の読みでは伝統的解釈に有利である。だが彼らの読みは τὴν οὐσίαν の削除に依拠しており,この削除の写本的な根拠は薄い。90a14-23. 日食の例と和声の例は異なっており,τί ἐστι, διὰ τί の問いの後に「はたして高音と低音は調和しうるか?」という問いが付け加わっている。著者の解釈を前提すれば,これはより初めの段階の問いを例解したものと考えることができる。

*1:i.e. 主語項-述語項の組み合わせに対応する事態。

*2:i.e. 独立の項に対応する事柄。

*3:注4: Eustratius, Pacius, 現代では Mansion, Ross, Barnes.

*4:注20: 省略 (ellipsis) には二種あり,文脈から補える場合と,一般化のために省略する場合がある。今回は後者。

*5:ここは一瞬怪しく思ったが意外と良い議論かもしれない。

*6:GC の議論をここに読み込んで良いのかよく分からない。良いとすれば有益な指摘だと思う。