Wedgwood, "The Coherence of Thrasymachus"

  • Ralph Wedgwood (2017) "The Coherence of Thrasymachus", Oxford Studies in Ancient Philosophy 53, 33-63.

『ポリテイア』1巻に関する論文。議論の背後にある事柄を丁寧に分析していて説得力がある。特に面白いと思った箇所には (行論上の重要性に関わりなく) 下線を引いた。


トラシュマコス [Θ.] の議論は整合的であり (↔ Maguire 1971, Everson 1998),恐怖すべき立場でもあって,第9巻までの叙述はこの立場との戦いである,と以下で論じる。

1. トラシュマコスによる正義の説明

Θ. は「正義はより強い者の利益である」と述べる (339a, 341a, 344c)。これは彼の公式の定義だと見なしてよい。なお第1巻の焦点となるのは正しい行為である。

「僭主は最も不正な者なのだから,自分自身が僭主である場合に,この定式は崩れる」という懸念は当たらない。この定式は正義をなす者に関するものであり,「私より強い者の利益である」の意味に解しうる。「他人の利益である」(343c) という後の主張は定義ではない。むしろこの定義の帰結にすぎない。また別の帰結として,僭主はそもそも正義をなしえない。

Θ. は正義を明示的に定義するが,不正も隠伏的に観念しており,その背景には「世の中は勝者敗者の二通りに分かれる」という前提がある。不正な行為とは意図して勝者たらんとする行為のことである。この理解は Θ. の主張と符合する (344a-c)。

この Θ. の正義/不正の定義は必要十分条件を提示している。それゆえ,これは極めて改訂的な (highly revisionary) 定義である。最も力ある者に逆らえば何であれ不正となり (cf. ソクラテス [Σ.],Ap. 32c4-d8),最も力ある者に従えば何であれ正義となるから。

他の概念理解も改訂的である。「利益」について言えば,彼はより強い者の利益となる行為は自分の利益たりえないと論じる (343c3-5)。恒常的なゼロ和ゲームの中で勝者と敗者が決まる。それゆえ不正が徳であり正義が悪徳である (348e)。不正は実践的知性 (εὐβουλία) を示すからである。この主張の背景には二つの原理が想定される。(1) 実践的知性を発揮する人は過たない。 (2) 人間は自己の利益を損なうことはしない (the 'rational egoist' principle)。おそらく Θ. は,正義は一種の無知だと考えている。

すると徳ある人々はつねに bellum omnium contra omnes に巻き込まれることになる。この結論の背景には「他人に及ぼす力 (power over others)」が最も利益になる財であるという考えがあると推測できる。力の観念が支配従属関係に結びついている。この力はポリュダマスの力 (338c) とは性質を異にしている (後者はゼロ和ではない)。

Θ. はまた,支配者は誤りうるという反論への再反論 (339c-e) において,支配は技能 (skill) であると主張する。

2. トラシュマコスによる自身の説明の擁護

結論が改訂的であっても,議論が混乱しているとは限らない。実際またヒューム (『道徳原理の研究』§9.3) やニーチェ (『反キリスト者』§13) の結論は Θ. と本質的に一致している。加えてプラトン自身の見解も改訂的である。

改訂的見解は特有の反論を被る。すなわち「日常的な意味での中心的な用語を特定のテクニカルな意味で用いることで,ひそかに主題を変更している」と言われるのである。Θ. は 338d6-10 においてこの種の懸念への応答を試み,338e1-339a4 の主張に繋げる。この箇所について,Reeve は「法律への服従」を名目的定義,「より強い者の利益」を事象的定義と解釈する。だが法律への服従は名目的定義ではない。

Σ. は 339b-e で Θ. の説を「支配者への服従が正義である」と解釈し,Θ. の同意を得る。だが実際には Θ. は「支配者は法律が正義であると宣言する」と述べたにすぎない。なるほどここには飛躍があり,Θ. は飛躍を埋める説明 (e.g.「支配階級の観念は支配的観念である」) を何ら与えていない。だが彼はそれを Σ. を含め誰もが同意することだとは考えている。これらが一般に同意されるのであれば,「主題の変更」の批難は退けられる。

ある行為について「支配者が正義だと宣言すること」が「正義である」ことの証拠となるなら,(i) そうした行為の共通項であり (ii) 支配者の宣言を因果的に説明するような,根本的・統一的特徴が,正義の本性であると考えられる。そしてこれが「支配者の利益」なのである。

それゆえ「正義 = 法律への服従」(legalist, positivist) 解釈は当たらない。(1) 「真の支配者」の場合を除いて「宣言」が正義とは限らない。(2) また「真の支配者」の場合でも,宣言がなければ正義ではない,とは限らないだろう (e.g. 支配者への称賛)。(3) Θ. にとって支配者が法律に服従することは正義ではない。――加えて,「法律への服従」は事象的定義たりえない。法律は徴表 (symptom) に過ぎないから。実際また 'legalist' 解釈はテクスト上の根拠が薄弱である。

3. トラシュマコスの重要性*1

Θ. の立場は上述のごとく首尾一貫したもので,正確にプラトンの立場のネガをなしており,それゆえに危険である。『ポリテイア』2巻後半から9巻までの中心的論証は Θ. の挑戦への回答と見なせる (450a5-b5, 545a2-b2, 588a-592b)。グラウコンとアデイマントスによるやり直しは Θ. の問題ではなく Σ. の対抗論証の問題だったと思われる (esp. πλεονεξία 論証 (349b1-350d3) と 国家-魂の統一性論証 (351c-352a))。

*1:この節は重要だが,さしあたりの自分の関心を外れているので,ごくかいつまんで要約する。