深井智朗『プロテスタンティズム』『思想としての編集者』

試みに教養書を読んだ雑感をブログに書いてみる。

プロテスタンティズム

表題通りプロテスタンティズム史の概説書。第1章では神聖ローマ帝国における贖宥状販売の史的背景が語られ、第2-3章ではルターの足跡が辿られる。第4章はアウクスブルク宗教平和の位置付けを確認し、改革派とアングリカンに触れる。第5章は「新プロテスタンティズム諸派を概観し、それを踏まえた第6-7章では、プロテスタンティズムがドイツにおいては保守主義に、アメリカにおいてはリベラリズム(政府の抑制と個人主義)に結びついたしだいが語られる。

とりわけ以下のことを学んだ。もっともどれもきわめて基本的な事柄なのだと思う。

  • キリスト教地中海世界から大陸内部に進出するにあたり多くのゲルマン的要素を取り込んだが、贖宥もその一つである。ゲルマンの法慣習における弁済とその代理という観念が悔い改めの秘跡に投影された。

  • ルターによる問題提起は当初純粋に神学的な問いのかたちを取っていた。明らかに政治的な意図に基づき行動するようになるのはライプツィヒ討論(1519-20)以後のことである。すなわち彼は1520年にはじめて教皇座の批判に着手し、同時に、聖書が唯一の権威であること・万人祭司・信仰義認の三原理を明確にする。

  • トレルチによる新旧二種のプロテスタンティズムという整理は――図式的にすぎるという批判は当然あるものの――なお有効である。両者の違いは、教会を政治的領域との関わりで捉えるか、自発的結社と見るか、という点にある。

その他ちょっとした挿話も豊富で面白く読んだ。

『思想としての編集者』

近代ドイツにおけるプロテスタンティズムと出版社の関わりから編集者の役割を捉えなおすという趣旨の本。とりわけプロローグにおいて提起される次の二つの問いが、本書全体のテーマともなる。第一に、「編集者とは誰か」。すなわち、従来の思想史ではもっぱら著者‐読者の関係に着目してきたが、編集者という中間項を念頭に置かねばならないのではないか。例えば、ティリッヒがアメリカで受容されるにあたって、アダムスとウィークという二人の編集者が決定的な役割を果たしたことが知られている。

編集者がこうした重要な役割を持つことはすぐれて近代的な事象である。Verlager ――この語は本来問屋業者一般を意味した――の役割を従来担ってきたのは多くは修道院であったが、18世紀における出版の自由化を契機として同時代人の著作の出版が盛んになり、「Verlager は急速に思想の『商品化』と『政治化』を求められた」(29ページ)。第1-3章では、思想運動のダイナミクスに編集者が関わっていく様子が、20世紀ドイツの多くの事例(ディーテリヒス、ミュンツェンベルク、ゲッペルス、ローヴォルト etc.)をもとに描かれている。

これに対して、第二の問いは「誰が編集者か」というものだ。特に20世紀以降、市場あるいは大衆という「匿名の編集者」が種々の課題を私たちに提起することになる。こちらは第4章で扱われる。

感想として、出版社なかんずく編集者が歴史的に果たしてきた役割の重要性に着目するのは興味深い視点と思う。他方で第4章についてはやや物足りなく感じた。この章ではホルクハイマー = アドルノティリッヒオルテガを引きつつ、大衆社会の観点から思想に対する市場原理の支配とナショナリズムの支配が並行して論じられている。けれども、それだけでは編集の退潮という現象に関しては目の粗い分析とならざるを得ないように思える。この分析から導き出される結論として、編集者は自ら思想を持っていなければならない、と述べられる。それはもちろん正しいが、その結論に至るためには別に個々の事例を見る必要もないのではないか。

以下は本筋とは別に興味深く感じたポイント。

  • ウェーバー『職業としての学問』に見られる対立構造と編集者ディーテリヒス(54-60ページ)。
  • 「政治的ルター・ルネッサンス」(194ページ)。cf. 深井『十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム
  • 「[ロルフ・リーンハルトは]廃刊に追い込んでもあまり大きな影響力のない一番小さくて、カトリックの中でも問題視されているようなグループをひとつ選び出し、その編集長を逮捕し、社屋を没収し、倉庫は不自然な火災によって消失してしまったのである。『ビュルツブルク敬虔者雑誌』がそれである。もっとも大きな、そして影響力ある新聞や雑誌を廃刊に追い込んだり、その編集部に強力な圧力をかけるのではなく、その対極にあるもっとも小さな出版社に「今後起こるかもしれないこと」を実際にやってみせることで、その後すべての出版社は事実上ナチスの宣伝相の手に落ちた。」(191-2ページ)