渡辺訳『テアイテトス』

講談社学術文庫ちくま学芸文庫版を改訂した新訳。このレーベルの他のギリシア哲学の作品同様,本書にも初学者向けの長めの解説が付されており (350-479頁),その注では現代の研究状況にも折りに触れて言及されている。第二部の議論と『ソフィスト』篇との接続如何など多くを学んだ。訳語として μὴ ὄν を「ありもしない」と訳すのは良さそうに思う (435頁,注30)。

今回再読したのは研究会の予習も兼ねていて,他にも少しだけプラトン認識論関連のにわか勉強をしたが,なかでも以下の論文は面白かった。ἐπιστήμη の持つ行為者性の含意に着目することで Burnyeat 解釈に見られる陪審員事例の不整合を解消する試み。

  • Tamer Nawar (2013) "Knowledge and True Belief at Theaetetus 201a–c", British Journal for the History of Philosophy 21(6), 1052-1070.

笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』

「タイムスリップ・コンビナート」「二百回忌」「なにもしてない」の三作を収める。旧作を文庫で出すために文学賞受賞作だけをまとめたのだという。著者の作品を読むのは『極楽・大祭・皇帝』に続いて二冊目で,こういう振れ幅のある作家だったのかと目が開かれた。この暗澹たる初期作品集を読んだのも随分前で記憶がおぼろげだが,そこから「なにもしてない」へと続く道は何となく視認できる。だが「タイムスリップ・コンビナート」はちょっと予想できない。

「タイムスリップ・コンビナート」は言語実験的な快作で,時空を伸縮させる自在な表現は「二百回忌」とも通じる。「二百回忌」は死人が蘇る奇妙な法事を描く短篇で,幻想的な祝祭が家族制度を徹底的に転覆する一時の晴れやかな雰囲気が漲っている。「なにもしてない」の舞台は平成二年,ひとり接触性湿疹をこじらせ引きこもりになっている小説家の「私」と,大量の警官を動員して行われる天皇即位式とが並行して描かれる。これは偶々だが読む時期がよかったと言うべきかもしれない。

マンシェット『眠りなき狙撃者』

『愚者が出てくる,城寨が見える』から続けざまに読む。プロットの緻密さや映像の鮮明さに鑑みて,全体的な完成度はこちらの方が高いと思う。原題が予示する最後の一段落の見事さには息を呑んだ。

マンシェット『愚者が出てくる,城寨が見える』

6年前に梅田の紀伊國屋で「ほんのまくら」フェアというのをやっていて,そこで買った本だったと思う。買ったはいいが一ページ目から人間が惨殺されるのでついていけずに読みさした記憶がある。その後『仁義なき戦い』シリーズを観るなどしてある種のテンポに慣れたのか,今回は面白く読めた。登場人物は皆ことごとく常軌を逸していて,ハードボイルドな文体が彼らの暴力と破壊を次から次へ描き出す。その限りで「アンチモラルな生存競争の寓話」(235頁) という訳者の要約は一面を捉えてはいるが,他方ペテールを核とする善玉悪玉の構図ははじめから明確で,この構図がどんでん返しの快感と結末のカタルシスを準備していることも確かだ。

ルーベンスタイン『中世の覚醒』

アリストテレスインパクトを中心にすえながら,中世を通じた理性と信仰をめぐる様々なイデオロギーの角逐を描いている。哲学者や神学者が書く中世思想史とはかなり趣が違った叙述になっていると思う。やや分厚いけれどもリーダブルなので万人に勧められる。伝記的叙述も楽しい(最大のヒーローはアリストテレスだがアベラールの章なんかもノリノリで,彼が死ぬくだりには「弁証法の達人,逝く」というすごい見出しが付いている)。

ブルケルト『ギリシャの神話と儀礼』

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桑子敏雄『エネルゲイア』

エネルゲイア」概念を中心に置いてアリストテレス哲学の様々な領域を論じる論文集。第一部「古代アテネの思想空間と「エネルゲイア」の概念」はアリストテレスエネルゲイア概念を導入するコンテクストを主として論理学的側面から探求しており,プラトンのみならずテオフラストス,スペウシッポス等の同世代の議論も視野においた叙述に特色がある (特に第2, 4章)。第二部「「エネルゲイア」の文脈と実体の問題」はエネルゲイア概念そのものの内実を論じ,第三部「心と価値」は魂論 (桑子訳では「心」) と倫理学に焦点を合わせる。

内容はまだあまり吟味できていないが,再読時のために若干メモしておく。第三章は「エピステーメー (「論証能力」) は個別的対象に関わらない点で感覚能力と区別される。行為の推論は後者が行う」(↔ 加藤「普遍の把握について」) と主張しており,「エパゴーゲー」の内実如何と合わせて要検討*1第四章はテオフラストス『形而上学』を「秩序に対する人間の認識の限界」の設定 (e.g. 目的論批判) という観点から読むもので,(テクストを全く知らないけれども) 面白い。第六章「類としての質料」は Owen の反 Jaeger 的発展史観*2を批判しており,Owen 論文と読み比べて考えたい。第八章「ヌースについて」は近々 De An. Γ4 を読むときに参照すべき。

*1:また推論の表記法につき Kneales を参照のこと。

*2:Owen, "The Platonism of Aristotle" が参照されている (未読)。cf. Owen, "Logic and Metaphysics in Some Earlier Works of Aristotle".