Focal meaning と一般形而上学の可能性 Owen, "Logic and Metaphysics in Some Earlier Works of Aristotle"

  • G. E. L. Owen (1960) "Logic and Metaphysics in Some Earlier Works of Aristotle," in I. During and G. E. L. Owen (eds.), Plato and Aristotle in the Mid-Fourth Century, Göteborg: Almquist and Wiksell, 163–190.

前半部は, focal meaning という分析概念を用いて,アリストテレスの思想の変遷において,「プラトンらの一般形而上学の企てへの批判がアリストテレス自身によるその構築に時間的に先立つ」ということを論証する。後半部はこれを前提して,アリストテレスイデア論批判の公平性についてのありうる疑義を検討し,退ける。

'Focal meaning' は本論考をきっかけに今日では解釈上の術語として定着しているようだが,定訳は見当たらなかった。ここでは訳さずにおく。


本論はアリストテレス論理学の発展を辿る。但し推論の理論ではなく,τὸ ὄν ᾗ ὄν (存在である限りの存在) についての普遍学の本性と可能性についてのアリストテレスの見解を形成した部分を扱う。この問題はアカデメイアの同時代人に共有されており,彼らは第一哲学の背後にある論理学を作り上げるのを助けた。

次のような有名な描像がある。「プラトンの死後しばらくの間,アリストテレスは諸学の女王たる形而上学の構築に没頭した。その後はじめて,個別諸科学に注意を向けた」。そして『形而上学』第4巻はこの転換を徴しているとされる。

だが,いくつかの証拠は,これと整合しない。それらによればむしろ,一旦可能性を棄却した一般形而上学に,アリストテレスは後にふたたび共感を示しているように思われる。

多義性 (ambiguity) と形而上学への攻撃

Meta. i9, 992b18-24 に見られるごとき多義性への関心は,アカデメイアの人々に共有されていた (e.g. スペウシッポス)。アカデメイアでは「一」や「存在」が単一の意味を持つか否かについても論争があった (SE 182b13-27)。アリストテレスはこれを否定する (Meta. 1042b25-8)。この論争が『パルメニデス』『ソフィスト』によって推進されていたことは疑いない。

EE は特筆すべき例である。EE では,存在や善は異なるカテゴリーに属するものであり,それら各々についての統一科学はありえず,個別の善 (ἴδιον ἀγαθόν) についての学がありうるのみである,とされる (1218a34-6)。Meta.EN で述べられていることとは正反対である。(もちろん EE でも異なる種類の善が相互に無関係とは述べられていないが,それらが「善」のある中心的な語義と関わる (πρὸς ἕν / ἀφ᾽ ἕνος) ことは示唆されていない。) EE の論戦の冒頭で,この話題は一般的で破壊的であるがゆえに,more dialectical (λογικωτέρας) なべつの探究に属する,と述べられている。*1 他方 NE はそうした破壊的な含意を緩め,より正確な議論を「べつの哲学」に譲る。こちらは Meta. iv で導入される種類の探究を指す。それゆえ,「善」の多義性への態度が,初期と後期で異なっている,と暫定的に言いうる。

Meta. iv, vi, xi では,「存在」は実体との関連で τρόπον τινα καθ ̓ ἕν に語られる,とされる。πρὸς ἕν καὶ μίαν τινα φύσιν λεγόμενα なもの,言い換えれば focal meaning を持つものを取り扱う新たな方法によって,アリストテレスは実体の個別科学を存在についての普遍学へと転化しえたのだ。

もっとも EE に focal meaning という観念がないわけではない。現にアリストテレスはこの観念を「医学的」や「友情」という例に適用している (1236a7-33)。しかしながら,「存在」や「善」のような極めて一般的な表現には適用していないのである。

論理的な優先性と自然的な優先性

以上の議論には反論がありうる: EEEN 同様,異なる種類の善のあいだに優先性 (priority) の順序を設けている (EE 1218a1-15, EN 1096a17-23)。善の種類 (types) は「善」の意味に対応すると考えるのが自然であり,したがって優先性とは第一のカテゴリーの優先性にほかならない。とすると,EEMeta. iv, vi の議論を前提していることになるのではないか。

だが,EENE における優先性は,カテゴリーに関するものではない。Meta. iv は論理的優先性と自然的な優先性を区別する。後者はプラトンに帰され,前者は後者から名付けられたとされる (Meta. 1019a1-4, 1028a32-b2)。 A が B より自然的に先立つ ⇔ A は B なしに実在しうるが,逆は言えない。EE の優先性はこうした単なる自然的優先性である。したがって反論は成り立たない。

オルガノンにおける両義性と形而上学

他の箇所でも,単に同名異義性を検出するのではなく focal meaning を探す箇所が見受けられる。Meta. v や自然学的著作,なかんずく De An. における魂概念がそうである。他方,Top. は「生」についての一般的な定義を求めることが誤りであると主張する。Cat. にも focal meaning によるカテゴリー間の論理的順序付けといった観念は見られない。要するに,Meta. iv におけるような focal meaning への着目は,これらの著作 (および『オルガノン』のその他の箇所) には見当たらない。*2

類比と focal meaning

ここまでの論述からアリストテレス思想の明瞭な描像が得られる: 論理学において彼は同名同義性と同名異義性の単純な二項対立で考えており,ここから存在の普遍学の可能性の否定が帰結する。論理学は Meta. iv, vi, vii の体系のために留保を置いてはいない。「『あるものども』という表現の多義性に注意を向けなかった」という Meta. i9 のプラトニスト批判も同様で,この箇所は (X) iv における「〈あるものども〉の諸要素 (τὰ στοιχεῖα τῶν ὄντων)」の普遍的探求の是認や (Y) xii における「全てのものは同一の要素を持つと類比によって (τῷ ἀνάλογον) 言いうる」という主張と,矛盾はしないまでも緊張関係に立つ。

ところで他方,X と Y は (X が「存在の類比」と伝統的に理解されてきたにも拘らず) 等価な主張ではない。X は「非実体についての主張は実体についての主張に還元できる」という主張だが,「類比」による定式化にはその含意はない。『分析論』で「各公理は学問や存在者の種類と同じだけの用法がある」とされるときも,諸用法は類比によって結びつくのであり,存在である限りの存在に妥当するという含みはない。

Focal meaning についてのアカデメイア派の議論

Meta. i9 および xiii の「第三の人間」によるイデア論批判は focal meaning を持ち出せば崩れる,と指摘されてきた。これに対して,従前の議論を踏まえれば,「このイデア論批判はより早い時期になされたものだった」としてアリストテレスを擁護可能であるかもしれない。しかしながら,アカデメイア派が既に focal meaning を熟知しており,アリストテレスもそれを知っていたということを示す証拠がいくつかある。もしそうであれば,アリストテレスの知的誠実さに疑問符が付されることになる。

この点では『リュシス』はあまり問題にならない。ここには EE の論理学的道具は見出されないし,「φίλα ἕνεκα φιλοῦ が最も慕わしいものである」というプラトンの主張も心理学的であって論理学的なものではない。

一見してよりまずいのは『プロトレプティコス』である。アカデメイアで通用していた自然的優先性を用いているだけでなく,「語が二つの意味を持ち (διττῶς λεγόμενον),そのうち一つが第一義的 (κυρίως, ἀληθῶς, πρότερον) であり,そこから他方が定義される,場合がある」と示唆する。さらに,このような仕方で第一義 A と第二義 B があるとき,A と B の間で比較が可能である,とする。というのも μᾶλλον は「より厳密な意味で」の他に「より高い度合いで」とも取れるからである。この同一視はプラトンの特徴である。〔しかし〕プラトンがこの両義性を無視したのに対して,アリストテレスは両義性を認めたうえで無害なものとして取り扱っている。そしてアリストテレスは,後にこの両義性の危険性を認識し,より論理学的に厳格な基準に達したのだ,と考えられる。それゆえこのテクストだけではアリストテレスに不審を抱く理由にはならない。両義性はプラトニストとの議論においては単に無視されているのだ,とも考えられる。

だが厄介なことに,イデア論擁護のために focal meaning が用いられた例が存在し,かつアリストテレス自身によって記録されている。アレクサンドロスアリストテレスの散逸した論考から採録した,次のようなイデア擁護論がそれである。――例えば「これは人間だ」と血肉を備えた生き物を指して言う場合と,絵画を指して言う場合では,語の用法が異なる。だがこれらは同一の φύσις を指示するがゆえに同名異義語ではない。この場合「人間」ということで「人間らしさ (a likeness of a man)」が意味されているのである。このとき「人間」の第一義は意味の一要素として現れている。「等しい」も同様で,「等しい」の第一義は厳密には日常的な意味での等しさに当てはまらない。(この議論が言わんとするところはおそらく,第二義はなんらかの限定に基づくのに対して,第一義はイデアを表す場合そうした限定を必要としない,ということだろう)。この論証の存在は,アリストテレスに不利に働くのではないか。

そうではない。第一に,あらゆる述語について「等しい」と同様の分析が可能であるわけではない。「等しい」は相関的であるため,このような分析がありえた。「人間」のような述語はこれとは異なり,focal meaning によって第三人間論の無限後退を免れることはできない。

たしかにプラトンはしばしば実物と肖像の関係を用いてイデアと分有者の関係を説明したし,あらゆるイデアについて同様の分析をしうることがアカデメイアで着想されたこと,そしてそれがアリストテレスの論争に現れたことは,間違いない。しかしながら,アリストテレスにとっては,そうした共約的・一般的説明は不可能であり,かつ実物と絵や像の関係は同名異義的であって同名同義的ではなかった。

物理的な類似性は focal meaning の十分条件ではない。アリストテレス自身,focal meaning の必要条件をしか示しておらず,十分条件を述べることを避けている。おそらく,いかなる定義も人工的なものになってしまう,という確信があったのだろう。

*1:"ἔστι μὲν οὖν τὸ διασκοπεῖν περὶ ταύτης τῆς δόξης ἑτέρας τε διατριβῆς καὶ τὰ πολλὰ λογικωτέρας ἐξ ἀνάγκης (οἱ γὰρ ἅμα ἀναιρετικοί τε καὶ κοινοὶ λόγοι κατ᾽ οὐδεμίαν εἰσὶν ἄλλην ἐπιστήμην)" (1217b16-19).

*2:この節は本当はもっと丁寧な論証をしている。後で当該箇所を読んで確認したい。