『後書』の ἐπιστήμη は「理解」のことである Burnyeat, "Aristotle on Understanding Knowledge"

  • Burnyeat, Miles "Aristotle on Understanding Knowledge" in E. Berti (ed.), Aristotle on Science: The Posterior Analytics. Padua: Antenore. 97-139.

『後書』の ἐπιστήμη は knowledge より understanding を意味し,両者の違いを識別することがテクスト理解にとって決定的であることを論じる。大筋でかなり説得力がある。

なお know / knowledge を「知る / 知識」,understand / understanding を「理解する / 理解」と訳す。論点は概ね伝わると思うが,訳語の理論負荷性や前理論的なコノテーションには注意しなければならない (cf. 注7, 22)。

やや理路を捉えがたい箇所が若干ある: 98-9, 110-2 など。総じて文章が難しい。頭が働いていないのもあるとは思う。


I

アリストテレスは今日別々に考えられている二つの事柄を同時に探求している。すなわち,科学の構造についての理論 (科学哲学) と,体系的知識を会得している個人の認知状態の説明 (認識論)。

アリストテレスの分析対象は ἐπιστήμη である。英語圏では伝統的に「科学的知識 (scientific knowledge)」と訳されてきたが,例えば Mure の A2 の訳を見るとこれがあまりうまく行っていない。認知状態としての knowledge と命題としての knowledge を混同している。*1誤訳の背景にはこの箇所の ἐπιστήμη を科学的命題と見なすのが自然だという考慮が働いている。「命題が科学的知識たりうる ⇒ 命題が第一原理から論証しうる」というのは自然であるが,「ひとが命題の知識を有する ⇒ ひとが命題を第一原理から論証できる」というのは信じがたい。

アリストテレスの ἐπιστήμη は個別の命題に関するもので,個別科学の全体に関するものではない。また「論証は第一の原理からなされる」という要件は,それが単なる正当化ではなくむしろ説明に関わることを意味する以上, ἐπιστήμη は「正当化された真なる信念」ではない。

Barnes は「理解 (understanding)」という訳語を当てるが,彼自身は「知識」と「理解」を対照することを躊躇っている。Barnes は Lyons のプラトン解釈における次の図式に依拠する:

$ εἰδέναι\ (know) \begin{cases} ἐπίστασθαι\ (understand) \\ γιγνώσκειν\ (be\ aware\ of) \end{cases} $

実際『後書』で ἐπίστασθαι は γιγνώσκειν から定義されており,εἰδέναι-ἐπίστασθαι と εἰδέναι-γιγνώσκειν は互換的に用いられている。しかしながら,この図式は英語における know と understand の相違に無頓着である。

『後書』に関してはむしろ次のように書き換えるべきだろう。εἰδέναι は文脈に応じて代用されるだけで類的概念ではない。

$ εἰδέναι\ (―) \begin{cases} ἐπίστασθαι\ (understand) \\ γιγνώσκειν\ (know) \end{cases} $

なお,アリストテレスの ἐπίστασθαι はプラトンのそれより特定化している。

  1. プラトンが ἐπίστασθαι + inf. や + (τέχνη を表す語の) acc. を頻用するのに対し,アリストテレスはむしろ ἐπίστασθαι ὅτι の構文を好む。 ii. またプラトンの ἐπιστήμη が τέχνη と γνῶσις の上位語であるのに対し,『後書』の ἐπιστήμη は ἐπιστάμενος の認知状態かその知識を指す。

それにも関わらず,A2 は日常的思考を基礎として分析を開始している。それゆえこの箇所は「ἐπιστήμη = 理解」解釈の最初に試金石となる。アリストテレスの主張は,ἐπίστασθαι が日常的には次のように捉えられている,というものである。

  • X ἐπίσταται Y iff. (a) Y の説明が何であるかを X が γιγνώσκει しており,かつ (b) Y が別様ではありえないことを X が γιγνώσκει している。

明らかに「X は Y を知っている」より「X は Y を理解している」のほうが近い。(同様の考慮は Phys. I.1 にも働く。この箇所では γνωρίζειν から γιγνώσκειν が分析される; ここでは後者が「理解する」と訳されるべきである。)

II

「ἐπιστήμη は別様ではありえないものについてのものである」という A2 冒頭の主張は,necessitas consequentiae ($\Box (p と知っている \rightarrow p)$) と necessitas consequentis ($p と知っている \rightarrow \Box p$) の混同として批判されてきた。「知識」と解するなら,この批判は当たっている。

だが,「理解」と解するなら,誤りである。アリストテレスの論点はむしろ,理解は自然における必然的結合の説明を知ることによって成立する,ということである。ここでは「説明」という要素が「知る・確信する」ということより重要である。というのも,ἐπίστασθαι は原理からなされる説明を伴うのであり (A2),また前提の必然性は説明になっていること (explanatoriness) の必要条件である (A6),からである。

ある科学における基礎的述定は他に説明を要しない (self-explanatory) ものでなければならない。また科学的定義は分析的な自明事ではなく,何らかの本質の実質的な知識でなければならない。

A2-6 は ἐπίστασθαι の通常の概念理解から公理的科学という発想を明確化している。ἐπιστήμη を有する人は「なぜ」の問いに体系的・俯瞰的な答えを持っている。『ポリテイア』で語られるヴィジョンが想起されても致し方ないところではある。実際 A33 は Resp. V を思い起こさせる仕方で ἐπιστήμη と δόξα を対比させている。

なお,アリストテレスは何も付帯的な事柄を知ることができないと述べているわけではない。それらは単に ἐπιστήμη の対象たりえないということである。

また,ἐπιστήμη に掛けられる制約は,単に体系的知識においてありうる命題や科学の対象の制約ではなく,ひとの認知状態としての ἐπιστήμη の対象への制約でもある。ἐπιστήμη が「知識」と捉えられたなら,アリストテレスは極めて懐疑的な見解を提出していることになるだろう。「理解」と捉えれば,この制約は少なくとも理解可能である。

III

アリストテレスは『後書』において,証拠・確実性・正当化といった知識論の中枢概念に訴えていない。これは「『後書』が論証を科学的発見の方法として提唱している」という嘗ての解釈とともに,「知識を教え・分け与える方法として提唱している」という最近の Barnes らの新たな正統説にも修正を要求する。

論証によって生徒に未知の事柄を教えるのはまずい教育法であり,アカデメイアの進んだ教育から見れば驚くべき退歩となるだろう。さらに少なくとも第一原理はフォーマルでない方法によって教えられねばならない (Top. I.2 ほか)。また Barnes 解釈によればエンドクサに大きく依拠するアリストテレスの諸著作は「教育的形式」を取らない点で価値を減じることになってしまう。

知識ではなく理解が問題になっているとすれば,新規の事柄の教授ではなく,むしろ既に有している理解の深化を目指す教育だと考えられる。もっとも『後書』が専ら教授することにのみ関わると考える必要はない。理解はまずもって個々人に益することだからだ。

また論証と帰納の並行関係に惑わされてもならない; ἐπιστήμη をもたらしうるのは前者のみである。διδασκαλία は第一義的には説明を与える仕方で解明することであり,理解をもたらすことだ。

IV

他方,Burnyeat 解釈の場合に論証が教育に役立つことになるか否かは,論証理論の成否に依存する。

アリストテレスの論証理論は (Barnes の議論にも拘らず) 三段論法の理論 (syllogistic) を含んでいる。他方,理解が非形式的・非体系的な知識から得られるとしても,アリストテレス的な論証の鋳型に知識を流し込まねばならないことが,そこから直ちに帰結するわけでは決してない。例えばバークリにとって understanding は個別的現象の法則発見以上の何ものも意味せず,science とは現象を予測する諸手段であった。(Siris §252-3.) これはアリストテレスの学問理解とは甚だしい径庭がある。

もとよりバークリの「説明」を単なる現象の一般化と言うことはできないにしても,アリストテレスは説明により多くを要求することで悪名高い。とはいえ最近の幾つかの著作は,アリストテレスが演繹-法則的説明の欠陥を見抜いていたとして称揚している (天体の明滅 ― 天体の距離)。*2

他方,ヘンペル*3は類似の例 (振り子の長さ ― 振り子の周期) について,何が説明の資格を有するかについて常識的な「説明」概念理解が十分な基礎を提供しないと主張する。ヘンペルはアリストテレス同様,日常的な説明観念の分析ではなくその「解明 (explication)」を目指したのだから,ヘンペルの基準で天体の例が説明になっているか否かはヘンペルにとっては重要ではないだろう。さらに,アリストテレス的立場からは,いかなる換位可能な項も両方の方向に説明できることはない」という点でヘンペルを批判するだろう (e.g. 金の原子番号 ― 金)。その背景には本性上の優先性を措定する形而上学的体系があるが,この点はむしろアリストテレスの方が常識外れである。また,天体の例を良い説明と認めねばならないのはバークリの立場であってヘンペルの立場ではない,という点も重要である。

従ってヘンペルの立場はバークリとアリストテレスの中間にあり,バークリの立場を棄却することはアリストテレスの立場を採用すべきことを意味しない。そして教育が論証を必要とするか否かは,「完全な説明が公理化された論証科学を必要とする」というアリストテレス的信念を共有するか否かにかかっている。そしてアリストテレスにとって公理系は人間が構築した知識の望ましい順序というだけでなく,実在の構造の写像である。

V

ἐπιστάμενος の認知状態に話を戻すと,原理は定理より πιστότερον であるとされる。γνωριμώτερον τῇ φύσει だからである。この区別は説明の本性的順序を示すのみならず,第一原理から知る人と経験に基づいて知る人の認知状態の違いにも対応している。ある学問の全ての命題を知る人も,どれが第一原理かを知らないなら,付帯的にしか ἐπιστήμη を有さない (EN 1139b33-5)。したがって第一原理は,真なる信念を知識にするために必要なのではなく,知識を理解に裏打ちされたものにするために必要なのである。この意味で結局は「ἐπιστήμη = 学問的知識」ということになる。もっとも知識論に対する現代的予断を捨てないと誤解が生じる。「我々に対して γνώριμον なもの」を獲得する過程にアリストテレスは殆ど興味を示していない。

VI

バークリはテアイテトスによる ἐπιστήμη の定義を 'Perception is knowledge' ではなく 'Sense is science' と致命的に誤訳し,結果として『テアイテトス』第一部を定義の論駁ではなく確証と解することになった。ここは 'knowledge' と訳すべきであり,『後書』と異なり確実性と正当化に関わる多くの議論をしているのである。他方,第二部終盤では「真なる信念に何を付け加えると知識になるのか?」というおなじみの問題が提起されているにも拘らず,「よい理由」「正当化」といった回答を期待すると失望させられることになる。というのも,第三部における「説明 (λόγος) の所有」という回答における「説明」とは,「X とは何であるか」への答えとみなされているからだ。ここでは「理解」の確証がむしろ問題になっている。プラトンは知識と理解をしばしば同化し,いわば ἐπίστασθαι から γιγνώσκειν を説明する。

アリストテレスは両者を区別するが,しかし彼は『後書』の最後で,自らの仕事を「全ての ἐπιστήμη が μετὰ λόγου である」ことを示すものだったと明らかにしている。言い換えれば『テアイテトス』の諸難問の解決を企図している。それにも拘らずテアイテトスの第一の定義に関する議論にアリストテレスが貢献していないように見えるとすれば,それは疑いなく,今日の認識論が正当化の問題に支配されているからである。

正当化の問題は歴史的には懐疑論と関連する。そして懐疑論アリストテレスの死後はじめて台頭した潮流であり,問題意識を全く異にする (e.g. アリストテレスストア派の ἀπόδειξις ならびに πιστόν 概念の相違)。懐疑主義インパクトは認識論と科学哲学を徐々に分離し,デカルトによる再結合の試みも虚しく,今日では別々の分野となっている。このことが,今日『後書』を読むことを難しくしているのである。

*1:要点はそうだと思うが,批判の道筋があまり良くわからなかった。

*2:注44: Brody, Sorabji, Patzig.

*3:"the covering law (deductive-nomological) model" の提唱者らしい。このあたり不勉強であまり良く分かってない。