Lee (2005) Epistemology after Protagoras, Ch.7 Γ5 のプロタゴラス批判

  • Mi-Kyoung Lee (2005) Epistemology after Protagoras: Responses to Relativism in Plato, Aristotle, and Democritus Oxford University Press.
  • Ch.7. Aristotle on Protagoras and early conceptions of thinking and perceiving. 133-180.

7.1 序論

  • アリストテレスプロタゴラス批判は,プラトン (Tht.) のそれと異なる.
    • まずプラトンのより圧縮されており,かつ決定不可能性論証により重きを置いている.
    • 決定不可能性論証批判は Tht. 177-9 からの建て増しになっている.またヘレニズム期の議論のいくつかを先取りしている.
    • アリストテレスによれば,多くの先行者たちは「現れが真である」という主張に (暗に) 与していた.それは現れ・思考を直接知覚から (思考内容を外的原因から (Caston (1996))) 説明しようとしたからだ.

7.2 全ての現れは真である

  • アリストテレスによれば,矛盾主義と同様,尺度説も感覚世界の観察から推論されたものである (1009b2-12).
    • ここでは3つの現れの組が言及される: (i) ある人に苦く,別の人に甘い.(ii) 異なる動物に異なる現れがある.(iii) 異なる感覚には異なる現れがある.
      • これらは Tht. 154a3-8 に対応する.
    • 後の例: 遠近によって長さや色が異なる (1010b3-6),現れが健康な者と病者とで (b6-7)・強い者と弱い者とで (b7-8)・寝ている者と起きている者とで (b8-9) 異なる.
    • 異なる感覚の間でも対立がありうる (1011a25-34).
  • そして,アリストテレスによれば,現れの正誤は多数決では決まらない.Cf. Tht. 158b8-e4. Tht.ソクラテスによれば,このことは尺度説を補強する: どの確信が正しいかは決定不可能である.
    • 決定不可能性論証は Tht. では尺度説の記述そのもの (152) とは切り離されており,反論への再反論に登場する.だがアリストテレスは尺度説の説明そのものに登場させる.その限りで尺度説はヘレニズム期の懐疑主義に接近する.
      • 1009b2-11 と 1010b3-9 の議論はアイネシデモスの第1-5方式に対応する.
    • これは驚くべきことではない.アイネシデモスはおそらく従来の論証の諸タイプをまとめたにすぎないからだ.
      • 懐疑派の議論のいくつかがプロタゴラス擁護論を発端とするなら,第8方式 (全ては相対的) のような一見ドグマティックな結論が含まれていることの説明がつく.
    • アリストテレスが第10方式 (倫理関係) にあたる対立する現れに言及していない点には注目すべき.プロタゴラス自身が例に使っていなかったからか,あるいはむしろ Tht. の焦点にならなかったからだろう.

7.3 思考のプロタゴラス的モデル

  • アリストテレスはあらゆる点でプロタゴラスの立場に反対する:
    • 対立する現れの諸例の重要性,
    • 感覚的事例への依拠,
    • 決定不可能性論証の妥当性.
  • しかしそれらの議論を見る前に,全ての先行者たちがプロタゴラス主義に与していたという主張 (Γ5, 1009b12-33) を見ておく.
    • これは一見おかしな主張である.パルメニデス,アナクサゴラス,エンペドクレス,デモクリトスはみな,知識/無知,真/偽,よい思考/悪い思考の区別に骨折っていたからだ.
    • だがアリストテレスの主張の眼目は,尺度説をもっともらしくする,思考と感覚の関係に関する暗黙の前提の同定にある.
  • アリストテレスの議論には二つのヴァージョンがある: Γ5, 1009b12-17; DA III 3, 427a19-b6. 以下の基本的論証が共通している:
    1. 知ることは感覚することと同種である (Γ5) / 思考することと知ることは感覚することに似る (DA III 3).
    2. 感覚することは変化の一種である.
    3. (∴ 思考することや知ることは変化の一種である.)
    4. ∴ 全ての感覚的現れは真である.
  • (1) は Met. のヴァージョンは "διὰ τὸ ὑπολαμβάνειν φρόνησιν μὲν τὴν αἴσθησιν". 'φρόνησις' の訳し方が問題になる: 認知的達成を含意するか,広く思考一般を指すか.
    • 広いと見たほうが先行者たちが全ての感覚的現れが真だと考えた理由がわかりやすい1
      • ゆえに: 'Denken' (Zeller 1920); 'thought/thinking' (Ross, Gulley, Caston, Laks); 'pensée' (Cassin & Narcy 1989; Morel 1996).
    • DA のヴァージョンは,アリストテレスが広く思考一般を念頭に置いていることを確証する: "δοκεῖ δὲ καὶ τὸ νοεῖν καὶ τὸ φρονεῖν ὥσπερ αἰσθάνεσθαί τι εἶναι".
  • アリストテレスは,先行者が知識を感覚と同一視したと言っているわけではない.
    • かりにそうだとしたら Snell の発展史的概念史の先駆けとなっただろう.
    • だが実際は Lesher が論じるように,既にホメロスにおいて「知る」は感覚し得ない事柄に用いられている.
  • むしろアリストテレスが彼らに帰属する主張は,「知ること・考えることは重要な仕方で感覚することに似ている」(cf. DA 427a26-9) ということだ: 彼らの思考の理解は感覚の理解に依存・後続している.
    • この点を理解するには前提 (2) の働きを理解する必要がある.
  • テオフラストスの De Sensibus の議論が理解に資する.
    • テオフラストスによれば,アリストテレス先行者は (アルクマイオンを除いて) みな,誤って,思考と感覚がほぼ同じ仕方で起こると考えた.
  • アリストテレスは (2) に異論はない (DA II 4-5).
    • 問題はそこから (3) が導かれることにある.思考を変化とみなすことは,思考が受動的だということを含意する.そしてそれは,アリストテレスによれば,虚偽の思考の不可能性を意味する.

7.3.1 エンペドクレスとパルメニデス

  • アリストテレスは (3) を明記せず,事例によって示している.
  • エンペドクレス: καὶ γὰρ Ἐμπεδοκλῆς μεταβάλλοντας τὴν ἕξιν μεταβάλλειν φησὶ τὴν φρόνησιν (1009b17-18).
    • 根拠資料1: "πρὸς παρεὸν γὰρ μῆτις ἐναύξεται ἀνθρώποισιν" (b19; fr. 106).
    • 根拠資料2: ἐν ἑτέροις δὲ λέγει ὅτι ὅσσον δ᾽ ἀλλοῖοι μετέφυν, τόσον ἄρ σφισιν αἰεὶ καὶ τὸ φρονεῖν ἀλλοῖα παρίστατο (b20; fr. 108).
      • 偽フィロポノス・シンプリキオスによれば,元の文脈では夢の原因が扱われている.特に偽フィロポノスによれば φρόνησις は夢を指している.
  • これらはエンペドクレスが (3) に与していることを示す: 心的状態の内容は物理的状態によって決定される.
    • テオフラストスの批判 (DS 23): そうだとすれば,全生物が φρονεῖν に与るだろう.(Cf. Tht. 161cd.)
    • さらに (ibid.),同じ説明によって,無生物も感覚に与ることになる.
      • 実際エンペドクレスは血が感覚するかのように述べている (fr. 105).
    • ただし問題は,テオフラストス自身,感覚を類似によって説明していること.
  • パルメニデス: ὡς γὰρ ἑκάστοτ᾽ ἔχει κρᾶσιν μελέων πολυκάμπτων,/ τὼς νόος ἀνθρώποισι παρίσταται: τὸ γὰρ αὐτὸ / ἔστιν ὅπερ φρονέει, μελέων φύσις ἀνθρώποισιν / καὶ πᾶσιν καὶ παντί: τὸ γὰρ πλέον ἐστὶ νόημα (b22-5; fr. 16).
    • パルメニデス自身の意図 (例えば μέλεα や τὸ πλέον の内実) は不明瞭.
    • だがアリストテレスの読み方は明瞭: 思考 (τὼς νόος, ὅπερ φρονέει, νόημα) は感覚器官ないし身体の部分に依存する.
      • テオフラストスも同様の読みを示す (DS 3-4).
  • アリストテレス (DA I 2) もテオフラストス (DS 10) も,「似たものを似たものによって」(like-by-like) 感覚し思考するという考えを,多くのプレソクラティクスが承認したと考えている.

7.3.2 アナクサゴラス

  • アリストテレスアナクサゴラスには「思考は感覚と類似である」説を帰属しない.むしろ「ものは現れる通りにある」という考え方を帰属する.
  • Ἀναξαγόρου δὲ καὶ ἀπόφθεγμα μνημονεύεται πρὸς τῶν ἑταίρων τινάς, ὅτι τοιαῦτ᾽ αὐτοῖς ἔσται τὰ ὄντα οἷα ἂν ὑπολάβωσιν. (1009b26-8)
    • アナクサゴラスが「ものごとは賢い人が信じるとおりにある」というプロタゴラス説を支持したとは考えにくい.
    • 言明が真正だとすれば,「ものは感覚される通りにある」という感覚説を意味すると思われる.
      • 実際テオフラストスは,アナクサゴラスを「感覚は反対のものからの変化により起こる」説の支持者に分類する (DS 27).

7.3.3 ホメロス/デモクリトス

  • アリストテレスホメロスをも誤った説の支持者とみなす.
    • ホメロスは権威としてよく使われる: Tht. 152-3, 160; DA III 3.
    • DA の引用は Od. 18.130-7 より.
      • 偽フィロポノスはアリストテレスが 'ἐπ' ἦμαρ' を「感覚対象に依存する」の意味に誤読したと理解する.テミスティオスも同様.
      • だが,'τοῖος νόος' が質的類似性を含意し,ゼウスが物理的環境の操作によって思考を引き起こすものと前提していると理解することもできる.
    • Γ5, 1009b28-31: φασὶ δὲ καὶ τὸν Ὅμηρον ταύτην ἔχοντα φαίνεσθαι2 τὴν δόξαν, ὅτι ἐποίησε τὸν Ἕκτορα, ὡς ἐξέστη ὑπὸ τῆς πληγῆς, κεῖσθαι ἀλλοφρονέοντα, ὡς φρονοῦντας μὲν καὶ τοὺς παραφρονοῦντας ἀλλ᾽ οὐ ταὐτά.
      • ἀλλοφρονεῖν は「狂乱」(Hdt. 5.85) ないし「気絶」(Il. 23.698) を意味しうる.
      • アリストテレスホメロスが ἀλλο+φρονεῖν という語源を利用していると考えていたように思われる.この場合やはり異なる身体的状態から異なる思考が生じるという意味になる.
      • 実際にはアリストテレスデモクリトスを念頭に置いていたように思われる.デモクリトスがこの一節を称えていたからだ (cf. §8.2 [vid. DA I 2]).

7.4 変化と作用の「似たものを似たものによって」理論

  • DAMet. における先行者の論証の違い: 感覚は Met. では変化とされるが,DA では like-by-like な作用 (affection) とされる.
    • like-by-like な作用は変化の一種.ゆえに DA の方が説明が詳しい.
  • Met. Γ5 では (2)「感覚とは ἀλλοίωσις」.
    • = κατὰ τὸ πάθος καὶ τὸ ποιόν (GC I 4) な変化.
    • = 実体的変化や量的変化や場所変化ではないもの.
  • 他方 DA では (5) 感覚は物体的であり (6) like-by-like な作用.
    • (6) は (2) をより特定したもの.
      • アリストテレスによれば,ποιεῖν と πάσχειν の諸理論は like-by-like なものと unlike-by-unlike なものに分けられる.
        • これを明示的に誰かが言ったわけではない.アリストテレスの独自分類 (Müller 1965).
      • アリストテレスによれば,殆どの理論家は unlike-by-unlike を採る.デモクリトスのみ like-by-like (GC I 7).
        • Cf. Theoph. DS 49; Sext. M VII 116-18.
        • ただしデモクリトス解釈としては妥当でない.
      • さらに言えば,この分類は誰にもぴったり当てはまらない.GC I 8 自体の原子論者・エンペドクレスの説明に基づいてさえそうである.
        • 「論争」の形にすることで自説の導入を容易にするねらいがあったものと思われる.
    • そして作用理論の分類同様,知覚理論の分類も彼独自のもの.
      • DA I 2 では,全員の説が like-by-like な知覚理論で,かつ魂が全てを知りうることを前提しているとされる.
      • そのうえで,魂を構成する原理・基本要素の選択で分類される.
    • それゆえ先行者の不整合性の主張は疑わしい.
      • DA I 5 によれば,like-by-like な知覚理論は以下の三点で不整合.(A) 作用は非類似なものによって生じる.(B) 感覚は作用の一種.(C) 類似したものが類似したものを感覚する.
      • だが,エンペドクレスはこれに当てはまらない: 文字通り「白くなる」わけではなく,同じ要素の再結合にすぎない.
    • とはいえ,先行者のテクストから次のような考えが示唆されるのは確かである:「A が x だと感覚している iff. A が x のようである/になる.それと同様に,A が x のことを考えている iff. A が x のようになっている」.
      • そして,「感覚の原因が,それが持っていると私たちが感覚している特徴を必然的に持っている」なら,錯誤はありえないことになる.

7.5 秘密の教説の感覚理論

  • 秘密の教説にもアリストテレスが斥ける考えが多く含まれる.
    1. 「思考することや信念を持つに至ることは一種の感覚である」.
      • Cf. Tht. 152b-c. "τὸ δέ γε φαίνεται αἰσθάνεσθαί ἐστιν; ... φαντασία ἄρα καὶ αἴσθησις ταὐτὸν ἔν τε θερμοῖς καὶ πᾶσι τοῖς τοιούτοις ..."
        • この φαντασία (appearing) は 161a8 で δόξα と並置される.
        • 「感覚」と「現れ」の同一視は,感覚領域に限れば無害に見えるかもしれない.
          • だが,δοκεῖν = φαίνεσθαι = αἰσθάνεσθαι とすると「全ての感覚は真である ⇔ 全ての感覚的信念は真である」となる.
          • しかし私たちは,直接の物理的作用と認知状態は違うと論じたくなるかもしれない.
    2. 「感覚とは一種の似たものによる作用であり,感覚対象は感覚の内容と質的に同じである」.
      • 感覚と感覚的質が「双子」であることから含意される.
      • 双子の想定は「現れが真である」というプロタゴラス説に必須だが,しかしアドホックで独立の理由をもたない.
        • かりに感覚がプライヴェートなものであったとしても,そのことは正確さを保証しないだろう.
    3. 思考を含むあらゆる現れは受動的作用である.
      • 1 と 2 から帰結する.
      • またこのとき,現在直接経験していること以外を思考することは不可能になる.

7.6 感覚と思考がなぜ異なるのかについてのプラトンの説明

  • Tht. では思考と感覚の類同化が退けられる.Tht. 184-7 の論駁によれば:
    1. 感覚は οὐσία (what is the case) を把握できない.
    2. οὐσία の把握は真理の把握に必要である.
    3. 真理の把握は知識の所持に必要である.
    4. したがって,感覚は知識の所持に十分ではない.
  • 諸感覚はそれ自体では何も把握しない.そうだとすると諸感覚をまとめるものがなくなってしまう (トロイアの木馬モデル).
    • むしろ単一の ψυχή が διὰ τούτων οἷον ὀργάνων に対象に達する.
  • ソクラテスはまず感覚において主要な役割を果たすのは感覚器官ではなく魂であると述べるが,しかし次に魂だけが把握するものがあると述べる.
    • この移行の眼目は見たところ感覚と反省的活動の区別にある.これにより οὐσία の把握が後者においてのみ可能であると論じられるようになる.
  • Cooper (1970): この移行によってソクラテスの主張が不明瞭になっている:
    • 解釈1.「感覚は感覚器官への作用からなる」.
      • この場合,οὐσία に至らないのは (a) 感覚が身体への作用であって,思考「x is F」の形成を要件とする認知的プロセスではないから.
    • 解釈2.「感覚は魂の知覚的行為からなる」.
      • この場合,οὐσία に至らないのは (b) 感覚は知覚的判断・信念に分節可能だが,何が事実であるか,つまり真理・実在の客観的基準に言及するものではないから.
  • どちらも可能だが,本稿はアリストテレスの批判 (cf. §7.7) との並行性から解釈1を採る.
    • Cf. ソクラテスの δοξάζειν の特徴づけ (187a7-8); 把握は λογισμός を必要とする (186b11-c5).
      • 第一に思考の対象は感覚対象より広い.第二に知覚は受動作用だが思考は魂自体の活動である.
  • 一旦感覚知覚 (perception) が単なる感覚まで狭められると,プラトンTht. の残りや後期対話篇で αἴσθησις についてあまり語らなくなる.
    • ありうる理由の一つは,感覚知覚をむしろ φαντασία と呼称しているため (cf. Sph. 263).これは判断の一種.

7.7 プロタゴラスの諸問題

  • アリストテレスも思考と感覚を峻別したが,プラトンと違って議論は明示的に先行者批判の形を取った.
  • アリストテレスは知覚を一種の作用として説明しているが,それを思考に適用するのは誤りである.F のないところで F について考えることが不可能になるからだ.
    • DA ではこの点が選言命題で示される: 彼らは (7) 全ての現れが真であるとするか,あるいは (8) 錯誤について別途整合的な説明を与える必要がある.
    • ありうる説明: 知識は like-by-like に,誤りは unlike-by-unlike に生じる.
      • 反論: δοκεῖ δὲ καὶ ἡ ἀπάτη καὶ ἡ ἐπιστήμη τῶν ἐναντίων ἡ αὐτὴ εἶναι. (III 3, 427b5-6)
      • おそらく意図するところは: 例えば感覚器官と対象のコントラスト (例: 冷たい指と温かいガラス) で知識が得られることがある.
    • アリストテレスは他の説明にはかかずらわない.立証責任は先行者の側にある.
      • 例えば「環境が悪いために適切な色が見えない」場合はどうか.−−この場合もはや説明のモデルが異なる.
  • 要するにアリストテレスが懸念しているのは二点.
    1. 思考を変化の一種と見なすと思考が受動的プロセスとなる.
    2. 思考が外部からの作用で決定するとき,つねに外部との対応があることになる.
      • これらの想定により思考内容や心的状態の問いがだめになってしまう.心的状態の対象と原因は同一視されるべきではない,というのがポイント (cf. Caston (1996)).
  • 以上に鑑みればアリストテレスの尺度説批判がよく理解できる: "περὶ δὲ τῆς ἀληθείας, ὡς οὐ πᾶν τὸ φαινόμενον ἀληθές, πρῶτον μὲν ὅτι οὐδ᾽ εἰ ἡ αἴσθησις μὴ ψευδὴς τοῦ γε ἰδίου ἐστίν, ἀλλ᾽ ἡ φαντασία οὐ ταὐτὸν τῇ αἰσθήσει" (1010b1-3, Bonitz (Ross, Jaeger) の修正に従う).
    • すなわち,プロタゴラスは固有感覚については正しかったが,そこから現れ全般が真だということは帰結しない.
      • Cf. DA II 6 418b12-13: 固有感覚の対象は,(i) 他の感覚では捉えられず,(ii) それについて誤りえない.
        • むろん (ii) は問題含みであり,アリストテレス自身ときに錯誤が可能だと認める (428b18).稀だということか,あるいは他の種類と比較して少ないという意味に理解すべき.
        • なぜ誤りにくいのかは不明.Barnes (1987) の提案: 生存や厚生に必要だから (DA III 12).
    • より誤りやすい二種の感覚がある: 付帯的感覚と共通感覚.
      • 共通感覚の導入は Tht. 184-5 の議論の修正になる.
  • また φαντασία は αἴσθησις ではない (contra Tht. 152b-c).
    • さらに言えば φαντασία は δόξα とも異なる (pace Plato).
      • まず δόξα と αἴσθησις が異なる.αἴσθησις は思考ではないから (DA 427b8-14).
        • (i) 動物はみな感覚能力を持つが思考能力をもつ動物は少ない.(ii) 固有感覚はつねに真だが思考は真でも偽でもありうる.
      • φαντασία はプラトンのそれと異なり感覚と信念の混合 (例: 白の φαντασία が白の感覚と「白はよい」という信念とからなる) ではない.
        • 混合だとしたら,δόξα αληθής と φαντασία が衝突したとき,前者を棄却する必要があるか,δόξα が真かつ偽だということになってしまう.
    • φαντασία は αἴσθησις ではない (pace Protagoras).
      • 感覚器官の直接的刺激なしに生じうるため (例: 夢,幻覚).
      • この点で記憶とも結びつく (De memoria 450a24-7).そのため φαντασία をもたない動物もある.
    • 三種の αἴσθησις に対応して三種の φαντασία がある (III 3 428b25-30).
    • φαντασία の誤りやすさは "φαίνεται ἡμῖν" 語法が不確実性・ためらいを示すこととも関係する.
  • アリストテレスの批判はプラトンの批判より明快である.
    • 後者の眼目は (a) 感覚が非命題的であることか (b) 現実を把握できないことかで曖昧だった.
    • アリストテレスによれば,感覚は真でも偽でもありうる.
      • アリストテレスは感覚がなすこととして δοξάζειν の代わりに κρινεῖν を用いる.後者の弱い意味で感覚をもつ動物はみな真理を把握できる.

7.8 さらなるプロタゴラス批判

  • アリストテレスは「思考は感覚と同様に意識に印象される」説に反論した後,決定不可能性論証を批判する.
  • 決定不可能性論証に対しては,「実際には何が真であるかわかる」という反論が可能である.
    • アリストテレスによれば,対立する現れはたいてい,感覚上の失敗か標準的状況の欠如によって説明できる.
  • 誰も本当には対立する現れに等しく権威があるとは考えない: εἶτ᾽ ἄξιον θαυμάσαι εἰ τοῦτ᾽ ἀποροῦσι, πότερον τηλικαῦτά ἐστι τὰ μεγέθη καὶ τὰ χρώματα τοιαῦτα οἷα τοῖς ἄπωθεν φαίνεται ἢ οἷα τοῖς ἐγγύθεν, καὶ πότερον οἷα τοῖς ὑγιαίνουσιν ἢ οἷα τοῖς κάμνουσιν, καὶ βαρύτερα πότερον ἃ τοῖς ἀσθενοῦσιν ἢ ἃ τοῖς ἰσχύουσιν, καὶ ἀληθῆ πότερον ἃ τοῖς καθεύδουσιν ἢ ἃ τοῖς ἐγρηγορόσιν. ὅτι μὲν γὰρ οὐκ οἴονταί γε, φανερόν: οὐθεὶς γοῦν, ἐὰν ὑπολάβῃ νύκτωρ Ἀθήνῃσιν εἶναι ὢν ἐν Λιβύῃ, πορεύεται εἰς τὸ ᾠδεῖον. (1010b3-11)
    • これは不当な議論だろうか.
      • フェニルチオカルバミドが苦いと感じる75%が正しく,25%は真の味を分かっていないと言えるだろうか.
      • また,寝ている人が夢の中でオデオンに行こうとすることはあるのではないか.
    • アリストテレスはこのことは否定しない.要点は,寝ている人の思考と起きている人の思考のどちらに権威があるかは誰も疑わないということ.
      • 夢の中にいるかどうか分からないという主張は Γ6, 1011a6-7 で確認されるが,ここでの論点ではない.
      • Cf. Γ4, 1008b12-27: p¬p をともに信じているという人に関しても,当人の行為が主張を裏切っている.
  • 次に,誰もが等しく「尺度」であるわけではない: Γ5, 1010b11-14 (医者の例).
    • 予測が真でありうることをプロタゴラスが認めるなら,この反論は成功するだろう.
      • 実際,橋が崩れるか崩れないかの予想で,橋の崩落が判断の確証となるような場合は,相対主義者にとって困難な例となる.
      • おそらくアリストテレスは,プロタゴラスが「A に x が F と現れる ⇒ A にとって x は F である」(P1) を主張し,逆 (P3) は主張していないと考え,それゆえこれが決定的な論証だと考えている.
  • 次の議論は先述の論点を対立する感覚について論じたもの (Γ5, 1010b14-19).
    • これは DA の枠組みを用いている.
    • 同じ感覚が対立する現れを報告することはありえない (同時に甘くかつ苦いというのは矛盾ではなく複雑な対象の感覚にすぎない.Cf. Γ6 1011a25-8, a31-b1).
  • ここまでの議論は個人における対立する現れに限定している; p¬p かを決められない事例の稀少さを強調するため.
  • 最後の論点: 質に関する現れの対立は,質そのものではなく,その帰属先に関わる (1010b19-30).
    • これは DA で言われる固有感覚の真理性に関する論点とは異なる: 特定の質自体が何であるかは必然的に決まっており,論争の対象となっていないし,なりえない.
    • おそらく Tht. の流動説論駁が念頭にある: 甘さ自体は変化しえない.
      • 「必然的にそうした本性をもつ」ものは正確に言って何か,をアリストテレスは説明していない.おそらくバークリ的感覚与件でも「甘さ」という普遍者でもない (pace Kenny 1967).むしろ性質個体.
      • そうだとすると,全てがあらゆる観点で変化するという全流動説に対する批判になる.
    • どのようなものを甘いと言うかについては誤りえない.全く把握していないという事態がありうるのみ.
      • むろん実際の本性については論争はありうるが,甘さ自体に関する対立する現れを経験することはできない.
  • まとめると: アリストテレスプロタゴラス説の不整合を突くのではなく,その出発点となる前提 (ないし暗黙の想定) を拒否している.
  • プロタゴラスはこれに納得するだろうか.まず,個人間では不一致があるという問題がある.つまり確信を持っていても正しいとは限らない.
    • ただ,アリストテレスの批判対象はむしろ全てが F かつ ¬F だと信じている人かもしれない.
    • また決定的な反論になるとはアリストテレスも考えていない (Γ6, 1011a3-13).
      • 「A に B より権威がある」ことの論証を求めると,無限背進に陥る (cf. アグリッパの方式).
      • たんに起きているか寝ているか判定できないというだけの話ではない.信念の正当化に必ず独立の根拠が必要かどうかという問題 (Irwin 1988: 194).

7.9 感覚可能なものだけが存在する

  • アリストテレスは (P) ⇔ (C) と明言するが,(P)-(H),(C)-(H) の関係はそれほど明確にしない.
    • (H) は (C) のラディカルな拡張に見える.
      • だが (C) は変化の程度・スコープについて何も言わないし (アリストテレスによれば全静止も帰結する),
      • (C) は全ての主張が等しく真だとするのに対し,(H) からは F でも ¬F でもないという立場が帰結する.
  • アリストテレスによれば,(C) (P) (H) 全てが「感覚可能なものだけが存在する」「あるものと感覚可能な世界は同一である」という思考様式から出てくる.
    • この命題は「現に感覚されているものだけがある」(P3) よりは弱い.
    • (C) (P) (H) に関する反論の多くがこの命題に関係する.
  • この命題に対する批判: 生物がなければ何もないことになる (Γ5, 1010b30-11a2).
    • これは実在論的描像と両立不可能だという趣旨であり,特に感覚には感覚に先立つ何かが必要だという興味深い主張を含んでいる.

7.10 結論

  • アリストテレスの批判は,必ずしも先行者を対象とするだけでなく,むしろ当時すでに現れ始めていた新たな哲学的傾向と関わるものである.以降ではそこに含まれうる論者としてデモクリトスを扱う.

  1. なぜ?

  2. 該当箇所 (p.147) の “φαίνεται” は誤植と思われる.