アリストテレスの σημαίνειν 概念 Irwin, "Aristotle's concept of signification"

  • Irwin, T. H. "Aristotle's concept of signification" in Malcolm Schofield, Martha Craven Nussbaum (eds.) Lanugage and Logos: Studies in ancient Greek philosophy presented to G. E. L. Owen. Cambridge: Cambridge University Press. 241-266.

アリストテレスの「表示する (σημαίνειν)」という概念の内容を論じたもの。とくに「意味する」とは多くの点で異なることが主張される。また『後書』の「我々に対して / 本性上」の区別を表示概念に適用して分析を行う。


1. 意味と表示

Owen のアリストテレス理解は,アリストテレスの問いと目的についての,ある明快で影響力のある描像を反映している。すなわち――アリストテレスソクラテス的な「何であるか」の問いを発し,語に結びついている概念を分析した。彼は充分な言語能力のある話者 (competent speaker) が隠伏的に把握している意味をパラドクスを含まない仕方で述べようとした。また場合によってはこの種の問いに単一の答えがあることを否定し,語が同名異義的であることを指摘した。

この描像の当否を確かめるため,Irwin は次の一般的な問いを提出する。「アリストテレスの著作は,そもそも意味への関心を示しているだろうか?」もし上述の説明が正しければ,答えはイエスだろう。そして実際アリストテレスは「意味する (mean)」に相当するように見える語「表示する (σημαίνειν, signify)」を持っている。

そこで,アリストテレスの表示概念が意味概念と同一か,また表示に関するアリストテレスの主張が意味に関するものかどうか,を問う。

2. 表示の諸条件

多くの箇所でアリストテレスの「表示」は意味として理解できるが,いくつかの箇所では文脈に沿わない。例えば「人間でない」が無限定なもの (ἀόριστον) を表示するという主張 (19b9) は「意味する」とパラフレーズできない。「〈人間か馬〉(manorhorse) は白い」ないし「〈人間かつ馬〉(manandhorse) は白い」*1は各々2個 / 0個の事柄を表示するとアリストテレスは述べるが,これらも意味は一つだろう。

3. 表示・定義・本質

表示・定義・本質の関係の検討によって「表示 ≠ 意味」説は補強される。

アリストテレスによれば,名辞は説明規定 (λόγος, formula) によって置換されうる。名辞は説明規定の徴表 (σημεῖον) であり,名辞とその説明規定は同一物を表示する。この説明規定は名辞に対応する定義 (ὁρισμός) を表す。――従って名辞と定義は同じものを表示すると考えてよいだろう。他方,F の定義は F の (非言語的) 本質を表示する。従って,名辞の表示は名辞の意味ではありえない。

他方,表示は指示 (referring) とも異なる。例えば「一」と「存在」は共指示的だが,一の本質と存在の本質は異なる。異なる名前が同一物を表示するのは,両者の説明規定が同一である場合のみである。

また,同一物を意味することは同一物を表示することの必要条件でも十分条件でもない。必要条件でない例: πολίτευμα と πολιτεία (Pol. 1278b8-15)。十分条件でない例: 「生」は複数の本質を表示する (Top. 148a26-31)。

4. 語・信念・表示

語はいかにして本質を表示するか?語が表示するものを知るために,我々は対象と信念のいずれかに着目しうる。対象に着目するなら,語が元々適用されていた対象を知ろうとするだろう (過去志向的 (retrospective) 探究)。例えば「リュクルゴス」が元々スパルタのゼウス像の名前だったなら,それが法制定者の名前であると後々スパルタ人が信じるようになろうと,「リュクルゴス」は依然ゼウス像を表示するだろう。

だが,これはアリストテレスの見解ではないように思われる。むしろアリストテレスは名前に結びついている一般の信念 (common beliefs) に着目し,未来志向的に (prospectively) その表示を確定する。但し一般の信念は改訂・再構築されねばならない。(cf. Owen, "Τιθέναι".) この観点からすると,名前が表示するのは,名前と結びつく再構築された信念がそれについて真であるところの本質,である。

プラトンは『クラテュロス』で適切な仮定を置き,両方の説明を組み合わせる。すなわち,はじめ実在について真なる見解を持つ法制定者が名前を付けたが,我々の知る名前はその真理の概要しか保存していない。プラトンは歴史的探究を退け,未来志向的方法に依拠する (Crat. 432E)。アリストテレスプラトンほど旗幟鮮明ではないにせよ,過去志向的見解は彼の他の哲学的見解に反する。むしろ信念の改訂・再構築が名前の表示対象 (significates) を発見すると解するべきだろう。なぜなら,(1) 彼は名前が本質を表示すると主張し,(2) 本質に沿うように一般の信念の再構築することを企てたのであり,(3) また明らかに一般の信念は名前と結びつく,からである。

アリストテレスは「我々に認識される」段階と「本性的に認識される」段階を区別し,これに応じて定義の二側面を区別した。アリストテレスは明示的に述べていないけれども,名前は定義の徴表であることから,二種類の定義は表示の二側面を反映していると考えうる。

5. 表示者の諸タイプ

表示者 (signifier) は,語のほかに,主張 (assertions),発話者,物も含む。

  • 一つの主張は一つの属性を持つ一つの基体を表示する。従って「〈人間か馬〉は白い」や「仕立て屋は白い」は一つの文だが,二つの主張をなす。
  • 発話者が表示するものは,発話される語が表示するものである。この点でも「私は表示する」と「私は意味する (I mean)」は異なる。
  • 人間という物も「人間」という語と同様に理性的動物を表示する。「表示」を「意味」と解するなら,これは使用と言及の混同である。だがそうではない。アリストテレスは例えば,雲が雨の徴表であり,煙が火の徴表である,と述べている。雲は雨を本性上 (そして我々に対して,つまり我々の信念を介して) 表示し,「雨」は雨を我々に対してのみ表示する。人間・「人間」・理性的動物についても同様のことが言える。*2

6. 表示対象の諸タイプ

アリストテレスは (1) 語は考え (thoughts) を表示し,(2) 何ものも指示しない項が何ものかを表示する,と述べる。これはどういうことか。

  1. アンモニオスは,物が思考を媒介して音〔語〕によって表示される,と解する。アリストテレスは直接そうは述べていないが,この二段階説を受け入れうるだろう。
  2. は「山羊鹿」の例がそれである。実在しない基体は本質を持ちえない点が問題である。しかしながら,次のように説明できる。すなわち,語は本性上は何ものも表示しないが,信念 (この場合はむしろ想像) を我々に対して表示する。*3

7.『分析論』における表示と本質

『分析論後書』B巻は二種類の定義を認める。一方は 'F' の表示対象を説明し,他方は F の本質を示す。つまり表示対象と本質は同一ではない。これはここまでの説明に反するように見える。

だが,アリストテレスの説明のうちに「我々に対する定義」と「本性上の定義」の区別を認め,先ほど想定した「我々に対する表示」と「本性上の表示」の区別と重ね合わせれば,見かけ上の矛盾は解消する。

8.『メタフュシカ』IV における表示と本質

アリストテレスは『メタフュシカ』Γ巻で表示に訴えて無矛盾律を擁護する。論述において表示は二つの相貌を見せる。

  1. 何かを表示することは何かについて話し・考えるために必要である。
  2. 何かを表示することは本質の実在を必要とする。

1 は「我々に対する表示」を表しているように見える。するとアリストテレスは矛盾した確たる思考を懐きえないことを論拠にしていることになる。これは一見尤もらしいが,2 と整合しない。

ここではむしろ専ら「本性上の表示」が問題になっていると考えるべきである。論理構造は概ね以下のようになろう。――無矛盾律に反して何ごとかを語るなら,一つの基体に同じ観点から反対の属性を帰するのでなければならない。しかるに,同一の基体は一にして同一の本質を持たなければならない。単一の本質を有する単一の基体を表示するには,その本質を構成する属性を有する限りの同一の基体を表示しなければならない。従って,その属性を肯定しかつ否定するなら,単一の基体について語っているということを,肯定しかつ否定することになる。従って,自身の主張を肯定しかつ否定することになる。――これはやはり意味についての議論ではない。

9. 結論

表示についてのアリストテレスの議論は意味についての議論であるとみなされるべきではない。「我々に対する表示」さえ意味と区別されるべきである。例えば「無抑制」が我々に対して表示するのは,その意味ではなく,それに対する我々の信念である。

これはもちろん,意味や概念についてのアリストテレスの見解をどこにも求めえないことを意味しない。また,表示に関するアリストテレスの見解が「本質」「実在の属性」「再構築された信念」に訴えている以上,彼の探求を明らかにするには,これらのより明晰な把握が必要になるだろう。語とその表示の探求は,世界と本質の探求の一部なのだ。

*1:18a19-26. 前者 (ἵππος καὶ ἄνθρωπος) は正確には「人間と馬」だろう。

*2:ここには明らかに事柄を掘り下げる余地がある。

*3:本節については Whitaker の『命題論』研究をもう一度ちゃんと読んだほうがいいだろう。Whitaker はアンモニオスの解釈を斥けており,「想像」概念を用いて不在の事物の表示を説明することにも批判的だったと思う。