〈として対象〉の理論 Fine (1982) “Acts, Events and Things”

  • Kit Fine (1982) "Acts, Events and Things" W. Leinfellner, E. Kraemer, and J. Schank (eds.), Sprache und Ontologie. Wien: Hoelder-Pichler-Tempsky.

「そもそも ᾗ/qua って何?」ということを考える手がかりになるかと思ったが,少なくともプラトンアリストテレスの当の語法とはあまり関係なさそう。(後者はそもそも何かが何かを constitute するという意味でこの語を使わないから。特に後述の「継承 (inheritance)」原則が成り立たない。) ただ Fine 自身最後に述べるように質料形相論全般を考える上では役に立つかもしれない。


問い: ゴリアテ銅像」のような物ないし実体とその物質・質料 (matter) ないし素材 (stuff) は同一か?

同一と考えるのが自然な理由はいくつかある。(1)「この物質は銅像である (is of identity)」と言うから。(2) 場所的一致(locational coincidence) があるから。(3) (2 に恐らくは依存して) 記述的一致 (descriptional coincidence) があるから。(もちろん一致は同一性を含意しない。だが,性質の一致をうまく説明できるのは同一性だけだ,と考える余地はある。) (4) (一番の理由) 物理的世界は物質からできており,その上なにか物質的な物 (material things) の存在を措定するのは奇妙である。

それにも関わらず,同一と考えるのは誤っている。青銅が溶けると銅像は消滅するが,青銅は消滅しないからだ。

もっとも,これに対しては標準的な応答がある: ここには内包的文脈があり,「銅像」と「その物質」は異なる記述のもとで同じものを指している。したがって,実在主張の真理値の違いは,指示対象の違いではなく,記述の違いである。ーーしかし,(1) これは「警察はその犯人を追っている」のような普通の内包的文脈ではない。したがって,内包性の不自然な説明が必要になってしまう。

そこで,銅像とその物質は別物だと考えよう。すると,銅像は青銅を親 (parent) とする青銅の時間切片 (temporal segment) だと考えられる。もっともより正確には,銅像は異なる時間に異なる物質から構成されうる。なので,銅像は,結果として生じる時間切片の時間的集積 (temporal aggregate) である。

この説明にはいくつか利点がある。(1) 銅像と物質の存在条件の違いを説明できる。(2)「この物質は銅像である」に自然な意味を与えられる。(3) 物理的現実の外延的・延長的 (extensional) 描像に沿う。

だが反論はありうる: 青銅がつねにゴリアテの形を取ったとしたら,区別できないのではないか。 ーーだが,銅像は「仮に融けたとしたら,なくなるだろう」という様相的・反事実的な性質を有する,と論じうる。内包的文脈による再反論は,時間的切片ヴァージョンと同様に効かない。そしてこのとき,銅像は青銅の「様相的切片」ということになる。つまり,それが実在する可能世界のなかの対象だけを含む。

上記の外延的見解は極めて魅力的だが,根本的欠陥を有する。すなわち,「物質が物質的な物を構成する」とはどういう関係なのか,に答えられないからだ。延長的見解によれば部分-全体関係だが,以上の説明における「X は Y の部分である」は双方向的になるか,「X は Y を構成する」と逆方向を向いてしまうかである。

本稿は外延的見解の放棄を提案する。物質的な物は内包的側面をもつ: ある対象 x と,x が持つ記述 (性質) φ について,「φ としての (qua) x」ないし「記述 φ のもとでの (under the description) x」という新たな対象を想定したい。x は基盤 (basis), φ は注釈 (gloss) である。x qua φを〈として対象 (qua-object)〉と呼び,〈として対象〉を形成する操作を「注釈する (glossing)」と呼ぶ。

注意:〈として対象〉はその基盤と同一ではない。また対応する切片とも同一ではない。加えて,普通言われる確定記述や 'x qua φ' が〈として対象〉を指すと主張しているわけでもない。〈として対象〉はもっぱら椅子,机等々の説明に使うつもりである。

〈として対象〉はいくつかの原則に支配される。

  • 実在 ある (世界-) 時点*1で x qua φ が実在する iff. ある時点で x が実在し,φ を持つ。
  • 同一性 (i) 二つの〈として対象〉が同一である iff. 基盤と注釈が同一である。(ii)〈として対象〉はその基盤とは区別される。
  • 継承 〈として対象〉が存在するとき,〈として対象〉はその基盤のもつ通常の性質をもつ。

〈として対象〉の理論をもとにすれば,物質的な物一般をうまく説明できる。実在条件についての色々のパズルを解決でき,継承原則によって「一致」を説明でき,また就中,構成関係の非対称性を部分-全体関係として説明できる。

構成の問題はじつは孤立した問題ではなく,関連する多くの困難がある。(1) 創造の問題。「だれかが像を創造した」と言いうるのはいかなる条件のもとでか。「像は物質だ」「物質の時間切片だ」という見解からはこれを説明できない。「〈として対象〉だ」とすれば説明できる。

(2) 行為の同一性。「手を挙げる」という行為の本性は何か? 「手を挙げる」という行為において起こったこと (occurrence) を特定できたとしよう (意図,神経生理学的な出来事連鎖 etc.)。すると,行為はそうした出来事そのものなのか,それ以外か? (これは物質的な物の例とパラレルである:) (身体的) 行為が身体運動と同一である,という考えは自然だが,少なくとも様相的に区別される。だが,「行為は身体運動の様相的切片だ」と言うと,両者の関係を取り逃がす。それゆえ,行為は〈として対象〉である。基盤は身体運動,注釈は (例えば)〈意図的であること〉だと言える。そして身体運動は身体的行為の質料である。

この議論は行為論の人気のトピックにも解明の光を投げかける。すなわち「行為と意図はどう関係するか?」立場は大きく概念主義 (「概念的関係がある」) と因果主義 (「因果関係がある」) に分けられるが,〈として対象〉理論は両者の直観を調停できる。すなわち,一方で,継承原則によって当の行為が特定の意図とともになされることになり*2本質主義的な関係がつくられる。他方で,特定の意図に起因してなされることが標準的性質なら,継承原則により,行為も当の意図に起因する。〈として対象〉という派生的・人工的出来事がほんとうに外界にある,とさえ言わなければ,ヒュームの批判も回避できる。

以上の議論は出来事全般に当てはまる。例:「ランスロット卿の童貞喪失」は,〈最初である〉という性質を有する点で,基底にある性行為と同一視できない。起こったことは出来事 (event) の質料であり,切片化・集積・注釈を経て出来事になる。

その他,出来事の同一性の問題,情動とその対象の問題にも応用できる。しかしとりわけ〈として対象〉の応用先として二点言及に値する。(1) アリストテレスの質料形相論のより明確な理解。(2)「必然的真理」の根拠の問題。ーーしかしこの理論は,とりわけ,さまざまな分野の類比を明らかにしている点で興味深いと言える。

*1:以下「世界-」は省略。

*2:ここのステップはよく分からない。次も同様。