初期対話篇における「F とは何か」の意味 Vlastos, "What did Socrates Understand by His "What is F?" Question?"
- Gregory Vlastos (1981) "What did Socrates Understand by His "What is F?" Question?" in Platonic Studies (2nd edition). Princeton: Princeton University Press. 410-417.
1976年に書かれた小論。(1) ソクラテスは「F とは何か?」ということで F の (原因ではなく) 意味を問うており,(2) ソクラテスにとって F が因果的効力を持つ場合,その背景には「善への欲望 (desire for good)」の教説がある,と論じる。
『ラケス』の「勇気とは何か?」という問いについて,Terry Penner は「認識論的・意味論的問いというよりは,因果的な・説明に関わる問い」であると主張する。Vlastos はこれに反対し次のように主張する:
- ソクラテスが問い求めていたのは「意味論的」な答えである。Vlastos はむしろ「構成的 (constitutive)」な答えと呼ぶ; すなわち「何が勇気を構成するのか」が問題になっている。
- ソクラテスが極めて実践的な関心から問うていた,という点では Penner に同意できる。だが,その問いは構成的な答えしか要しない。
I.
『メノン』における「F とは何か?」の問いは非因果的である。Penner 説は『メノン』と初期対話篇の間で問いの性質が変わった理由を説明しなければならないが,そうした理由は見当たらない。
『ラケス』192a-b でソクラテスは自分の問いの意図をラケスに次のように説明する。例えば走ること,リュラを演奏すること,学ぶこと等々に共通する「はやさ」とは,τὴν ἐν ὀλίγῳ χρόνῳ διαπραττομένην δύναμιν である,と述べる。Penner はこの 'δύναμις' を 'power' と訳すが,これは「語の意味」「性質」といった意味にも解しうる語であり,因果的に捉える必要はない。『カルミデス』168bff. の用法も (charitable に読む限り) 非因果的である。
むしろ「速さとは何か?」を構成的に捉えるなら,何の問題もない。『プロタゴラス』332b6-c2*1,『小ヒッピアス』294a8-b4も同様である。
II.
徳を広めることを生涯の最大目的とした人間が「勇気」の意味を知ろうとしたことは自然なことだ。誤った観念を持つと価値判断が歪み無価値な事柄の奨励にもつながる。アクラシアの不可能性の教説がこれを補強する。この教説の背後にあるのは,全ての人間は善を欲し,他のことを欲さない,という信念である。
ソクラテスが単に彼の「勇気」の定義を与えて,それでお終いにしたなら,彼は人間を「勇敢にする」ものが何であるのかを明らかにしなかっただろう,という Penner の指摘は完璧に正しい。Penner が見逃していたのは,定義が動機のダイナミクス (the dynamics of motivation) 〔すなわち善への欲望〕とが結びつき,それによって因果的重要性を獲得するということであった。
*1:"καὶ εἴ τι μετὰ τάχους, ταχέως, καὶ εἴ τι μετὰ βραδυτῆτος, βραδέως; [...] καὶ εἴ τι δὴ ὡσαύτως πράττεται, ὑπὸ τοῦ αὐτοῦ πράττεται, καὶ εἴ τι ἐναντίως, ὑπὸ τοῦ ἐναντίου;" p.415 n.7 によれば,Guthrie はこれを "agency" と訳していたが,後の HGP 4巻では『エウテュプロン』6d の instrumental dative, which "means no more than ... that its presence in the instances gives the objective justification for calling them pious",とパラレルな例として挙げている。