政治的責務の諸問題.責務とその関連概念 Simmons (1979) Moral Principles and Political Obligations, Intro. & Ch.1

  • A. John Simmons (1979) Moral Principles and Political Obligations, Princeton University Press.
    • Introduction. 3-6.
    • Chap.1. Obligations. 7-28.

序論

政治的責務 (political obligation) についての伝統的な問いは以下の通り.本書はこれらを論じる.

  • そもそも政治的責務なるものはあるのか.
    1. ひとはその責務を誰に負うのか.
    2. 何をする責務なのか.
    3. いかにしてその責務を担うようになるのか.

ここで「政治的責務」とは,人々が特定の政府と道徳的な絆 (moral bonds) で縛られていると感じている (例: 政治制度を支え法律に従わねばならないと感じている),その絆である.

なお McPherson は,政治的責務を道徳的なものとみなさない.だが,道徳的でない「政治的責務」は,単に制度が命令する規則の内容でしかありえない.それは政治哲学の範疇にないし,伝統的な問いが意図するものでもない.ゆえにこの見方は採らない.

政治的責務は遵法責務と同一視すべきでない.なぜなら,政治的責務はつねにシティズンシップの概念と密接に結びつけられ,「良き市民」である責務として考えられてきたからだ.これには法に従う以外の仕方で政治制度を支えることも含まれる (例: 国防に寄与する).ゆえに叩き台として,政治的責務とは,居住する国の政治的制度を支持し,かつそれに従う (support and comply with) 責務だと言える.

以上は問題 2 に応じている.問題 1 には,(a) 統治者,(b) 政府 (政治制度の集合),(c) 同胞市民といった答えがありうる.これに応じて,責務の根拠を問う問題 3 への応答も変わってくる.これらに答えれば,責務の内容もわかるだろう.

第1章 責務

I.i. 責務と最終的判断

責務とは要求 (requirement) である.要求は,その他の道徳的考慮と異なり,私たちの意向と無関係に遂行すべきものである.この点で責務は実力 (force) や強制 (coercion) の観念と結びつくという特徴をもつ.

しかしだからといって,責務が他のあらゆる道徳的考慮に優先する (override) わけではない.だから,以下の a-b と c-e を対比できる:

  1. X は A する責務をもつ.
  2. (ないしは: X は A する義務 (duty) をもつ.)
  3. X は A しなければならない (ought to).
  4. X が A しないとすれば,それは間違い (wrong) である.
  5. A は X がなすべき正しいことだ (the right thing to do).

判断 a-e の混同は道徳哲学史上ありふれているとはいえ,責務の判断は標準的にはその他の道徳的判断と区別される.a は c を含意しないし (道徳的ジレンマ,責務の衝突),逆に c も a を含意しない.

「きみは A する責務がある」と言うとき,私たちはその人と別の人 (たち) の関係について述べ,また A するよい理由があると述べている.その一方で,「きみは A すべきだ」と言うとき,それは助言 (advice) であり,A すべき最も強い理由があると述べているのである.「べき」の最もありふれた用法は,特定の観点を前提せず,「万事を考慮した」(all things considered) 助言を伝える.

したがって,ひとが政治的責務をもつことは,その責務を遂行すべきことを意味しない.政治的責務は,政治的共同体でどう行為すべきかに関連する考慮の一種にすぎないのである.

I.ii. 責務と義務

「責務」と「義務」はここまで区別しなかったし,日常言語でも互換的である.だが,両者には異なる範例的用法があり,その違いは言葉の歴史的起源に由来する (Brandt).厳密には本書で言う「政治的責務」は「政治的責務ないし義務」となる.

一方の「義務」には二種類ある:

  • 制度的条件と独立に存在する「自然的義務 (natural duty)」(例: 溺れている人を救う義務),,
  • 地位や役割 (例: 市民,教師,大統領,父親) に付随する「地位的義務 (positional duty)」.
    • 自然的義務は,万人が万人に対して負うものであり,かつて「自然法」と呼ばれたものの中核をなす.

他方の「責務」は,以下の四条件を満たす (Hart) 道徳的要求である:

  1. 責務は何らかの意図的行為 (ないし不作為) の遂行によって生み出される.(我々は自らに責務を負わせる (obligate ourselves).)
  2. 責務は特定人格が特定 (諸) 人格に負う.
  3. 責務には対応する (obligee の) 権利が存在する.
  4. 行為を責務的 (obligatory) にするのは,行為の本性ではなく,obligor と obligee の関係の本性である.

本書では責務の四原理を論じる: 忠実性 (fidelity),合意 (consent),フェアプレー,感謝 (gratitude).他方で義務については公正の自然的義務のみを論じる.

I.iii. 地位的義務と道徳的要求

二種類の地位的義務が,政治的責務と緊密に結びつく.

  • 国家内で有効な法体系は人々に「法的責務」(legal obligations) を課す.これは「国家の領域内の人間」という地位に付随する地位的義務である.
  • 市民的義務」(duties of citizenship) は「市民」という地位に付随する.

かりに政治的責務が道徳的要求なのだとすれば,「法的責務」や「市民的義務」は特定個人の行為の道徳的制約を生み出すことになり,それらの制約から冒頭の問いに解答できることになる.

だが,これらの地位的義務は (そしていかなる地位的義務も) 道徳的要求ではない.ヤンキースの監督と KKK のメンバーは同じ意味で地位的義務を有している.

たしかに,政治的責務が道徳的要求であるように見える事例はある.

  • 大統領が職務を遂行する際に重大な失敗を犯したときや,
  • 衛生兵が多くの傷病者に構わずぶらついていたとき,道徳的義務を果たしていないと言いうる.

だが,

  • 前者が道徳的非難に値するのは大統領が自発的にその地位に就き,当の職務を引き受けたからであり,
  • 後者が道徳的非難に値するのは当の行為を遂行する自然的義務が同時に存在するからである.

他の事例もこの二パターンに帰着できるように思われる.

地位的義務が責務の必要条件となるのは,自然的事実がそうなるのと同じ意味においてでしかない (Stocker).ゆえに,地位的義務だけでは決して道徳的要求に十分ではない (pace Fain).

それゆえ,単なる「法的責務」「市民的義務」と,道徳的要求としての「法を遵守する責務」「政治的責務」を区別する必要がある.前者だけからは後者は説明できない.固陋な法体系や専制的政府が支持に値しないことを思えば当然である.

I.iv 「一応の」要求

以上の議論に対して,地位的義務は「一応の」(prima facie) 道徳的要求なのだという反論がありうる: 不服従の強い理由がない限り,「法的責務」は「本当の」(actual) 要求になり,私たちを拘束する.

この「本当-一応」の区別をどう理解すべきだろうか.元々の Ross の区別は,義務であることと,義務になる傾向があること ("tending to be" our duty) の区別である.後者は厳密には義務ではない.

Ross 自身の区別の動機は,道徳的主張が筋の通った仕方で覆される (overridden) (例: 交通事故被害者を助けるためにランチの約束を破る) ということの説明にある.Ross は Kant 的な「完全/不完全」義務の順序付けに満足しない.だが両方を真正の義務と認めるのも適当でない.Ross にとって道徳的に行為するとは「義務をなす」ことに他ならないからである.

だが本当は,義務 (や責務) だけが道徳の主題であるわけではない.ゆえに私たちは,満たすべきでない義務を認めても差し支えない.実際,義務は衝突し覆されても道徳的重要性を持ちうる (実は Ross 自身このことに気づいている).

それゆえ,あらゆる道徳的要求は,行為の決定的理由にはならないという意味では「一応の」ものであり,単なる「要求への傾向性」でないという意味では「実際の」ものである.それゆえ,こうしたジャーゴンによって,「法的責務」が道徳的要求でないという結論を覆すことはできない.

こうした「一応-本当」の改訂版の区別は今なおよく用いられるが,この用語法は避けるべきだ.I.i の「万事を考慮した」で事足りるうえ,直感に反する帰結が生じるからだ.特に,この用語法だと,覆された主張が道徳的重要性をもちつづけるという事実があやふやになってしまう.