メアリの部屋やネーゲルのコウモリは物理主義の反証にはならない Levin (1986) "Could Love be Like a Heatwave?"

  • Janet Levin (1986) "Could Love be Like a Heatwave? Physicalism and the Subjective Character of Experience" Philosophical Studies 49, 245-261.

I

  • Nagel, "What is it to be a bat": (物理主義,機能主義 etc. による) 世界の純粋に「客観的な」記述からは,コウモリであるとはどういうことかの知識は得られない.
  • Jackson, "Epiphenomenal qualia": 白黒の環境で育ったメアリは,物理学・神経科学のいかなる知識を持っていようと,はじめて外界を見たときに色と色経験に関する新たな知識を得るはずだ.

これらに対するよくある異論:「コウモリであるとはどういうことかの知識」「色を見るとはどういうことかの知識」は一種の実践的知識・能力である.それらの欠如は理論的知識の欠如ではない.心的状態の最も包括的な記述も,そうした実践的能力を与えはしない.

とはいえ,ある種の経験の能力なしに当の経験についての単純な事実を知り得ないということはもっともらしい:

  • 単なる経験が実践的能力だけを与え理論的知識を与えないというのはおかしい.
  • 少なくとも一部の事実の源泉となるのが経験のみだと考えるのは尤もらしい (心的状態の知識に関する経験主義).
  • 私たちと,私たちの経験を共有できない人々とのあいだには重要な認知的違いがある.これを経験に関する事実の知識の違いから説明するするのは自然である.

したがって,Nagel や Jackson の議論は,少なくとも「心的状態についての全ての知識にアクセスするには,特定の種類の経験をする必要がある」という主張に注意を向ける役割を果たしている.物理主義者はこの主張のもつ尤もらしさを取り去る必要がある.本稿はこれを行う.

当の主張は,以下の (Nagel や Jackson の議論より強力な) 議論ゆえに尤もらしいものになっている.議論は二つの前提からなる:

  1. 特定の経験を欠く人は,直接的な再認・弁別能力 (recognitional or discriminative ability) を欠く.すなわち,推論したり,器具を用いることなしに,単にある心的状態の概念を手元の経験に適用することで,当の状態に自分がいることを知る能力を欠く.
  2. 心的状態を再認し弁別する能力は,心的状態の完全な事実的知識を得るのに必要である.

この議論は Richard Warner が明示的に行った.また Molyneux 問題のような古典的議論にも暗黙的に含まれている.

だが,以下で論じるように,この議論は「直接的再認能力」の両義性に訴えてしまっており,どちらの読みを取っても両方の前提が真にはならない.当の両義性は,概念をもつことと,概念を適用する手段 (wherewithal) をもつことの混同に由来する.したがって問題は,「能力をもつこと」としての知識と「事実と関係すること」としての知識の混同にはなく,むしろ二つの能力の混同にあるのである.

II

古典的経験主義的予想における直接的再認能力の役割を確認する.

  • Molyneux 問題: 生まれつき盲目の人の目が見えるようになったとき,この人は二つの対象のどちらが球でどちらが立方体かを視覚だけで判断できるか.

Molyneux (や Locke, Berkeley) はできないと予想した.そしてそれができないことが,視覚的な形や輪郭の「観念」が視覚経験以外 (触覚や推論など) から得られないことの証明になると考えた.

他方で Jackson や Nagel の問いは,球や立方体の視覚経験を区別できるかという,やや異なる問いである.だが,Molyneux 問題に否定的に解答するなら,こちらの問いにも否定的に回答することになるだろう.

Molyneux の予測が正しかった場合,生まれつき盲目だった人の理論的知識はいかなるものになるのか.経験主義者にとって,観念は属性の「色褪せた写し」(faint copies) なので,再認の欠如は当然概念の欠如を意味する.だが概念形成の他の理論を採るとどうか.

  • たとえば,盲人がメアリ同様(幾何学・心理学の「客観的」語彙で記述できる範囲で)全知であった場合,この人は立方体や球やそれらの視覚経験について正確に解答できるかもしれない.
  • また,他の図形の例をいくつか見せられた後でなら,球と立方体を正確に同定できるかもしれない.この場合もはじめの再認の欠如は事実の知識の欠如を意味せず,単に新たな経験に概念を適用する能力が欠けていたにすぎない,

こうした事例において盲人に持たれていない種類のものとして「直接的再認能力」を理解するなら,論証の前提1は真だが,2は偽になる.

もう一つの理解の仕方として,ものに触れることなしに最小限の訓練を受けたあとで得られる種類のものを「直接的再認能力」と呼ぶこともできる.この能力を理論的知識のテストとして用いるのは尤もらしい.

だが盲人がこのテストに通れば,前提1が偽だということになる.そして,通るというのは直感的に尤もらしいし,経験的証拠もある (R. L. Gregory).もっとも,懸念が二つある.

  • 弁別が部分的に過去の触覚経験からの推論に依存するかもしれない.
    • これを斥ける決定的な議論はない.だが以下の別の事例を考えれば,多少懸念は和らぐ.
  • Molyneux 予想が問題にする球や立方体は触覚と視覚に共通の内的構造的特徴をもつように思われる.

III

だが,Warner が提示したより「純粋な」身体的知覚の例についても同じ問題が提起できる.その例は以下の通り.

  • あるアルファ・ケンタウリ星人が全知であり,しかし腹痛を感じることができない種だとする.その一人が器具を用いて神経系を改変し,私たちと同じ腹痛を感じることができるようになったとする.
  • 他方,この実験の予期せぬ副作用として,別の経験したことのない感覚として,吐き気も感じたとする.

Warner によれば,このときアルファ・ケンタウリ星人は,どちらが痛みでどちらが吐き気かを同定できない.ゆえに,物理主義や機能主義は痛みの感覚についてのある事実を捉えそこなっている.

この場合の感覚はより生 (raw) である: 痛みと他の感覚との明白な同型性はない.だが,ここにも再認能力の両義性はある.

  • アルファ・ケンタウリ星人は,痛みと吐き気の機能 (後者のみが食物の回避や嘔吐を引き起こす) をもとに,両者を区別できるようになるかもしれない.
  • 「この区別は概念の単なる適用ではなく推論によるため直接的ではない」と言うのは論点先取である.痛みと嘔吐の客観的諸性質がそれらの概念をなすことは仮定されており,問題はそれが再認能力に十分かどうかだったからだ.概念の欠如が再認能力の欠如から結論されるなら,再認能力の欠如は概念の欠如以外から確立されなければならない.

もっとも,痛みと吐き気はそれほど甚だしく異なっているわけではないため,それらの識別のために何らかの経験が必要である,という可能性はある.別の例を挙げると,食べ物を消化している胃の感覚と激しい運動のあとの胃の感覚を識別するには,満腹の経験と激しい運動の経験が必要かもしれない.胃腸に何も感じたことのないアルファ・ケンタウリ星人が「直接に」痛みと吐き気を識別できるかは定かでない.

とはいえ,Molyneux 事例と同様,そうした識別能力の欠如が事実の知識の欠如を示しているとは限らない.予め痛みと嘔吐についてのあらゆる問題に解答でき,他の種類の痛みを感じたあとで痛みを識別できるとすれば,欠けていたのは概念の適用能力であって概念そのものではない.

この線でいけば,メアリがはじめ色を識別できなかったのも概念の適用能力の欠如によるのであり,概念の欠如によるのではない.他方 Nagel のコウモリの場合,私たちはたしかに経験の概念自体を持っていない.だが,だが,特定の経験をすることでしかそれらの概念を獲得できないと考える理由はない.

IV

だが,「概念ではなく適用能力の欠如だ」と言うことで,Nagel や Jackson に反駁できているか,疑問の余地があるかもしれない.

  • 概念をもつことと,概念の適用能力をもつことの区別は困難かもしれない.すなわち,心的状態の概念は,経験を分類する能力ではない何らかの概念ないし傾向性と同一視できるかもしれない.
    • だが,この想定は,概念の違いが別の仕方で顕示されうることを無視している.例えば,推論・判断の役割において違いが現れるかもしれない.また,そうした違いが,最終的には分類行動に現れるかもしれない.
  • 「メアリや盲人が新たな経験を同定するためにそれほどたくさんの経験的予備知識が必要ない」という主張は,二つの条件に依存している: (1) 経験が客観的記述により個別化可能である.(2) 個別化の次元が人間にとって知覚的に目立っている (perceptually salient).
    • だが,(2) が成り立たなければ,そもそも再認できないことが事実に関する欠如に帰着できない.(1) が成り立たない場合は Nagel-Jackson の議論と無関係である.

V

では,概念をもつことと再認能力のつながりは,なぜかように強固に見えるのか.

たしかにつながりはあるが,必然的なつながりというわけではない.つながりはむしろ認識的 (epistemic) なものにすぎない.再認能力をもつ人は概念をもつことの信頼可能な実演 (reliable demonstration) を行うのであり,再認できないことはしばしば知識の欠如を示す.だが,これは何も心的状態の知識に限った話ではない.例えば犬種や電子の同定を考えよ.そして盲人がそれらを同定できなかったとしても,盲人にそれらの知識を認めることはできる.犬や電子の知識は他の多くの概念と論理的・帰納的つながりをもつ.痛みや赤く見えることは他の概念とのそうした内的つながりがより少ないかもしれないが,それは程度問題でしかない.

そうだとしても,経験は知識に特別な寄与をなすように思われるかもしれない.たしかに経験は多大な寄与をなす.だが,それは効率が高いというだけで,代替不可能だというわけではない.そして,この効率性も心的現象の知識に特有のものではない.