『テアイテトス』155e-157d 秘密の教説に基づく知覚論

Tht. 155e3-157d6.


ソクラテス では周りをよく見て,信徒ならざる者が誰か漏れ聞いてはいないか気をつけたまえ.この人々は,両手でしっかりと摑むことのできるようなもの以外は何も,あるとは考えない人たちであって,作用も生成も,見えざるもの全てを,実在の部分として受け入れないのだ.

テアイテトス それは本当に,ソクラテス,厳しく頑固な人々のことを仰っているのですね.

ソクラテス そうなのだ,テアイテトス,彼らは全くの無教養なのだ.他の人々はずっと洗練されており,その人々の秘伝を私は君に話そうと思う.その原理は,私がたったいま述べたことも全てそれに依存するのだが,彼らにとっては次のことだ.すなわち,万物は運動であり,それを除外しては他の何ものもない.運動には二つの種類があり,各々は多さの点では無限である.その一方は作用することのできる能力であり,他方は受動する能力である.これらの相互の交流と摩擦から,多さの点で無限だが双子である子供たちが生まれるが,その一方は感覚されるもの,他方は感覚であり,感覚は感覚されるものとともに産み落とされて生み出されるのだ.さて諸感覚は私たちに関しては次のような名前を持っている.すなわち視覚,聴覚,嗅覚,冷感と温感,快楽と苦痛,欲求と恐れと呼ばれるものや,その他,名前のないものは無数にあり,名付けられているものもあまたある.一方で感覚されるものはそれら諸感覚の各々と同族の種類であり,あらゆる種類の視覚にあらゆる種類の色が,同様に諸聴覚には諸音声が,他の諸感覚には他の諸々の感覚対象が同族になる.さてこの物語は,テアイテトス,私たちにとって,先ほどの事柄に対して,何を意味しているのだろうか.君は理解できるかね.

テアイテトス あまりよく分かりません,ソクラテス

ソクラテス しかし,どうにか完遂できるか見てみよう.というのも,これら全てはちょうど私たちが言うような仕方で運動するが,それらの運動には速さと遅さがある.そしておよそ遅いものは同じもののなかで,近いものに対する運動を保ち,またそのようにして産出する.一方で生まれたものどもは1そのようにしていっそう速い.というのも,移動するのであり,またそれらの移動のうちに運動が生まれついているから.そこで,眼と,眼と調和する他の何かが近いものになり,白さと,白さと本性を同じくする感覚とを生み出すような場合−−それら〔白さとその感覚〕は前者のものども〔眼とそれに調和するもの〕の各々が他のものへと向かうときには決して生じないようなものどもであるが−−,そのとき視覚は両眼から,白さは色を一緒に生むものから,中間において運動し,それゆえ一方で眼は視覚に満ち,そしてまさに見るのであり,ある視覚となるのではなく見ている眼となるのである.他方で同族の色は白さに満たされて,やはり白さではなく白いものになる−−木であれ石であれ,そうした色によって偶々色づけられた事物に2.そして他のものどもも,硬いものや熱いものや全てが,そのようであり,同じ仕方で想定されねばならない.すなわち,「一方ではそれ自体としては全くありはしない−−このことは先ほども私たちは言っていた.他方で相互の交流において万物が生じており,あらゆる種類のものが運動から生じるのである.なぜなら,それらのなかの作用するものも作用を受けるものも何かであると一つのものに関して思考することも,私たちが主張しているように,堅固な仕方ではできないのだから」と.というのも,作用するものも作用を受けるものと出会うまではありはしないし,作用を受けるものも作用するものと出会うまではありはしないから.何かと出会い作用するものは,今度は他のものと遭遇して作用を受けるものとして現れる.したがってこれら全てのことから,私たちが最初から言っていたことが出てくるのだ−−何ものもそれ自体としては一つではなく,つねに何かによって生じているのであり,「ある」はあらゆる側面から取り去られねばならないのだ.私たちはしばしば,そして今も,習慣と知識の欠如とによってそれを用いることを強いられているのだけれどもね.しかし一方では,知者たちの言論が言うように,そうすべきではないのであり,「何か」も「私の」も「これ」も「あれ」も,立ち止まらせる他のいかなる名辞も許されるべきではなく,むしろ本性に即して,なり,生み出され,消滅し,他のものになるものであると発話されねばならない.誰かが何かを言論によって立ち止まらせようとする場合,そうする人は容易に論駁されるのだから.部分に関しても,多くの集合−−それに対して人間や石や各々の動物やものの種類が名付けられているのだが−−をめぐっても,そのように語らなければならない.さて以上のことが,テアイテトス,君には結構だと思われるだろうか.そして快いものとして味わうだろうか.

テアイテトス 私にはわかりません,ソクラテス.というのも,あなたについて,一体あなたが自分でよいと思われてそれらのことを語っているのか,それとも私のことを試しているのかも理解できないのです.

ソクラテス 友よ,君は覚えていないのだ,私がこうしたことを何も自分では知っていないし,自分で生み出したのでもない.私はむしろそれらについて不妊であって,君のお産を手伝い,そのためにまじないの歌を歌って,君の考えを光のもとにともに引き出すまで,知見の各々を賞味するということを提供しているのだ.それが引き出されたら,直ちに私は,それが空っぽなものとして現れるか,それとも実りあるものとして現れるかを検討するだろう.だが自信を持って,辛抱強く,勇敢に,私が尋ねることどもが君にどう現れるだろうかを答えてくれ.

テアイテトス では尋ねてください.

要約

  • (1) 手で摑めるものしかあると考えない (作用も生成も見えないもの全ても認めない) 無教養な人々と,(2) より洗練された人々がいる.
  • 後者の人々の秘伝:
    • 万物は運動である.
    • 運動には (a) 作用する能力と (b) 作用を受ける能力がある (例: 眼-眼と調和するもの).
    • (a) と (b) の交流と摩擦から,(c) 様々な感覚と (d) 感覚されるものとが生まれる (例: 特定の視覚-特定の色,特定の聴覚-特定の音声).
    • 生み出すもの (a) (b) は遅い (同じところに留まる) 運動,生み出されるもの (c) (d) は速い (移動する) 運動.
    • (a) も (b) もそれ自体で何かである (εἶναί τι) わけではない; 互いに出会うことで (a) (b) になり,また (a) は他のものとの関係では (b) になる.
      • ゆえに,何ものもそれ自体として一つで「ある」のではない.
      • 「何か」「私の」「これ」「あれ」などの名辞も使ってはならない.

先行研究

Cornford:

  • この箇所の理論は従来キュレネ派に帰属されてきたが,テクスト上の根拠はない.むしろプロタゴラス自身とパルメニデスを除く全哲学者・詩人が当てはまる.Jackson はこれをプラトン自身の創意と見なす.
    • Jackson は正しい.プラトンは感覚対象が本当の〈あるもの〉でないことから「知識は感覚である」説を論駁している.したがって感覚対象の性格の説明は正しいものでなければならない.他の学派の感覚論が「知識をもたらす」という主張と整合しないと論じても意味がない.この種のことを何も論じなかったプロタゴラスに秘密の教説として帰属したのは作劇上の適切さを保持するねらいに基づく.
  • εἶναί τι は 'being any definite thing' (白さのような質を持つ) とも 'having any being' (それ自体として作用者・被作用者である) とも取れる.

McDowell:

  • ここでは視覚と白さが流出物 (effluxes) と見なされているようにも見え,その場合 Tim. の理論に似る.
    • だが,Tim では白さは粒子の形と大きさで決まるのに対し,Tht. では白さの流出は眼の接近を必要とし,部分的には眼によって決定される.
  • 白さが物体からの,視覚が眼からの流出物だと文字通りに考える場合,「眼が視覚に満たされる」といった主張が理解できない.それゆえ,「眼は対象が現す白さの現れを見る」「対象は白さの現れを眼に現す」といった「方向」の比喩表現だという解釈もありうる.
    • だが比喩的解釈では,第一に 181b-183b の運動と性質変化の区別の議論の眼目が理解できない (知覚論を文字通りに受け取らない限り,181bff. の議論が知覚論に寄与すると言えない).
    • また「眼の後ろの方から発する」という意味に理解すれば,主張も理解できる.白さに関する主張の方は空間を満たすという意味で取ればよい.
  • 「視覚 / 見る眼」「白さ / 白いもの」の区別はイデア/イデアに与るもの (や Sph. の類/類に与るもの) と少なくとも似ている.
  • 指示詞の使用不可能性というテーゼは Tim. 49d-e や Crat. 439d に類例がある.このテーゼは「時間を通じて持続するものがない」というテーゼと (おそらく素朴な仕方で) 結びついている.また同じくらい「ある」の拒否とも結びつく (必要十分になる).
  • 「ものの種類」(εἶδος) という言葉づかいはイデア論と共通であり,秘密の教説とイデア論の対比を示唆する.

  1. OCT は Hicken に従い欠落を想定する.

  2. “ὁτιοῦν συνέβη χρῆμα χρωσθῆναι” (OCT). ὁτιοῦν corr. Par. 1811: ὅτου οὖν βTW: ὁτῳοῦν Par. 1812 | χρῆμα corr. Par. 1811: χρῶμα βTW: σῶμα Shanz: secl. Heindorf. 主要写本の読みだと τῷ τοιούτῳ χρώματι の意味がよく分からないので OCT の選択に従う.