『テアイテトス』153d-154e 変化の本性と感覚の相対性に鑑みた感覚理論.変化の本性に関する逆説

Tht. 153d8-154e6.


ソクラテス では,優れた人よ,次のように考えてくれ.まず両眼に従って君が白い色と呼ぶものが,それ自体,君の両眼の外にある別の何かではなく,また両眼のうちにもないと.そしてそれに何らかの場所を割り当てないようにしてくれ.というのも,そうすると直ちに配置において留まることができるだろうし,生成において生じることができなくなるだろうから.

テアイテトス しかし,どのようにですか.

ソクラテス 直前の議論に従って,何ものもそれ自体に即して一つでありはしないと措定しよう.そうすると私たちには,黒も白も他のどんな色も,適した運動への両眼の接触から生じていると現れる.そして各々の色であると私たちが言うものは,接触してくるものでも,接触されるものでもなく,むしろ各々に固有に中間的に生じる何かであるだろう.それとも君は,各々の色であると君に現れている通りに,犬や何であれ他の動物にも現れていると断言できるかい.

テアイテトス ゼウスに誓って,私にはできません.

ソクラテス ではどうだろう.はたして他の人にも,何かが君に現れるのと同様に現れているだろうか.君は確固としてそう考えるだろうか,それともはるかにいっそう,「君自身と決して同様の状態にないのだから,君自身とさえ同一のことが現れていない」と考えるだろうか.

テアイテトス 前者より後者だと私には思われます.

ソクラテス それでは,一方で,もし私たちが自分と計り比べるものや,私たちが触れるものが,大きかったり白かったり熱かったりするなら,他のものとぶつかって或るものになるということは決してないだろう.当のものは何ら変化しないのだから.他方で,計り比べる主体や触れる主体がこれらの各々〔大きい・白い・熱い〕であるとき,再び,他のものが接してきたり何かを被ったりしないなら,当のものが全く何も被らずに他のものになることはできない.それというのも,いま私たちは,友よ,プロタゴラスや彼と同じことを言おうと試みるすべての人々が主張するように,驚くべきであり笑うべきでもあることを言うことを強いられるのだ.

テアイテトス どのような意味で,またどのようなもののことをおっしゃっているのですか.

ソクラテス ちょっとした例を取ってみよう.そうすると私が言おうとしていることどもは全て君に分かるだろう.すなわち,六つの骰子は,君が四つの骰子をそれに加えるなら,私たちは四つより多いとか一倍半だとか言うのであり,十二個なら,より少ないとか半分だとか言うのであって,別な言い方をすることは容認されない.それとも,君は容認するだろうか.

テアイテトス いいえ,私なら容認しません.

ソクラテス ではどうだろう.君にプロタゴラスや他の誰かがこう言ったとして−−「テアイテトスよ,増加する以外の仕方で,より大きくなったり多くなったりする仕方があるだろうか」−−,君はどう答えるね.

テアイテトス ソクラテス,今の質問に対して思われるところをお答えするなら,「ありません」.その一方で,以前の質問に関係して,反対のことを言わないように注意するなら,「あります」.

ソクラテス ヘーラーにかけて,友よ,立派で神のごとき答え方だ.しかし見たところ,「ある」と答えるなら,エウリピデス的なことが帰結するだろう.というのも,舌は私たちに論駁されていないが,心は論駁されているからだ.

テアイテトス その通りですね.

ソクラテス したがって,かりに私と君が賢明にして知者であり,心に属する全てのことどもを詳しく吟味してしまっているとすれば,残りの時間は十分な資源をもとに互いを試問し,ソフィスト的な仕方でそうした戦いを交えて,互いの言論を言論にぶつけるだろう.しかし実際は,素人である以上,まず「私たちが思考していることどもが一体何であるのか」ということや,「私たちと互いに調和するか,それとも全く調和しないか」ということを,それ自体に関して考察することを,私たちは望むだろう.

テアイテトス むろん私はそれを望むでしょう.

要約

  • 秘密の教説に従うなら,テアイテトスが両眼に従って (kata)「白い色」と呼ぶものは,テアイテトスの両眼の外にも中にもなく,特定の場所に位置づけられない.
    • ∵ どこかに位置づけられれば,「ある」ことになり,「なる」ことができなくなる.
  • 何ものもそれ自体に即して一つでないなら,色は両眼の運動への接触から生じると考えられる.
    • その際,色は接触主体でも客体でもなく,接触の結果として生じるものである.
      • テアイテトスと犬,テアイテトスと他の人,あるいはテアイテトスとテアイテトス自身でさえ,現れ方が異なる.
      • だが,感覚対象がもともと特定の質のものなら,感覚主体との接触で変化しない.また感覚主体だけに質を帰属させても質の変化は説明できない.
    • 〔内在的性質を認めるときに出てくる〕同一でありながら変化しているとも思われる例: 六つの骰子は四つと比べれば1.5倍,十二個と比べれば半分.

先行研究

155 以降に跨る論点は次章まで読んでから検討する.

Cornford:

  • 「計り比べる」(παραμετρούμεθα) は「人間は万物の尺度」説を容易に想起させるが,秘密の教説によれば感覚主体も客体と等しく流動的であり,尺度の用をなさない.しかし次の節では文字通りの大小の計り比べが意味されている.

McDowell:

  • 153d-154a. 先ほどまで「ある」を拒否し「なる」を受け入れる方針だったが,ここでは「白さ」などの日常的個物が事例に挙がっている.「ある」を用いずにそうした実例を特定できるかは疑わしい.
  • 「適した運動」に即応するものは後には出てこない.またここでは感覚器官が能動的だが,後の場合は感覚対象が能動的 (159c).
  • 「秘密の教説の眼目は感覚的質の相対性にない」という McDowell 説が正しければ,ここの感覚理論の眼目は説明が必要: (i) 感覚的質は感覚主体に相対的にものに帰属される,(ii) 感覚規定は根本的に不安定である,という2つの要件を満たすように感覚メカニズムを説明するのがねらいであり,これによって 152d7 における運動概念の導入が正当化される1
  • 154bff. 「対象が白い」とも「主体が白を見ている」とも言うべきでないという議論はいずれも次の原理に依拠する: (P) 何かが f であり,それ自体が変化しないなら,f 以外にはならない.
  • 計り比べる主体や触れる主体がこれらの各々である:「これら」は 'παραμετρούμενον ἢ ἐφαπτόμενον' (measuring and touching [in some particular way]) を受ける2.'μέγα ἢ λευκὸν ἢ θερμὸν' を受けるとすると「眼が白い」といったことになってしまう.
  • ここも相対主義が争点ではない: 白さそのものの相対性は強調されていない.むしろ be 動詞の使用の批判に眼目がある3

  1. 意味がよく分からない.

  2. 気持ちは分かるがギリシャ語として無理だと思う.ここでは Cornford などに倣って後者の選択肢で理解する.

  3. これも説得力に乏しい.