キリスト教倫理の有害な残滓としての道徳的「べき」概念 Anscombe (1958) "Modern Moral Philosophy"

  • G. E. M. Anscombe (1958) "Modern Moral Philosophy" Philosophy 33(124) 1-19.

本稿では三つの主張を行う:

  1. 私たちは,適切な心理学の哲学を欠いている現時点で,道徳哲学 (moral philosophy) を行うべきではない.
  2. 道徳的責務 (obligation)・義務 (duty),道徳的善悪 (right and wrong), 道徳的「べき」(ought) 概念は,心理的に可能なら,捨てるべきだ.
    • これらは過去の倫理の構想の残滓にすぎず,その構想抜きには有害である.
  3. シジウィック以来の英語圏の道徳哲学者のあいだの意見の相違は瑣末である.

アリストテレスの『倫理学』と現代道徳哲学は対照的である.そもそも "moral"〔ἠθικός〕の意味が違う.アリストテレスの「知性的徳」には現代で言う「道徳的」側面があるように見えるかもしれない.その基準は,徳の欠如が道徳的に非難に値する (morally blameworthy) かどうかになるだろう.だが,道徳的非難という考えはアリストテレスの議論の中心にないし,義務一般や道徳的義務についても論じていない.

バトラーからミルに至る近代の著名な著作家も,「道徳的」善・義務 etc. という主題に関して啓発的ではない:

  • バトラーは良心 (conscience) を讃えるが,良心がこの上なく下劣な行いを命じうることには無知であった.
  • ヒュームは倫理的判断を「真理」から追放した.彼は,何であれ何かをねらうことが「情念」(passion) をもつことだと定義し,「である」から「べき」(や「借りがある」(owe)「必要とする」(need)) に進むことを拒否した.
  • カントは「自己立法」(legislating for oneself) という考えを導入したが,これは個人の個々の意思決定を「投票」と呼ぶのと同じくらいばかげている (立法者は卓越した権力を持っている必要がある).普遍化可能な格率に関するカントの規則は,ある行為についての格率を構築する上でどの記述が関連するかを約定しなければ,役に立たない (が,嘘について厳格主義を採るカントには,「嘘であると適切に記述される場合とそうでない場合がある」という発想がなかった).
  • ベンサムとミルは「快楽」(pleasure) 概念の困難に気づいていなかった.
    • 古代人は気づいていた: アリストテレスは快楽が快い活動と同じであると同時に異なることを "τοῖς ἀκμαίοις ἡ ὥρα" という意味不明瞭な言葉で表そうとした〔EN 1174b〕.
    • 近代人は概ね問題にしておらず,ライルが一,二年前に初めて問題視した: ロックこのかた快楽は内的印象の一種とされるが,内的印象は行為の眼目ではありえない.
  • ミルはまた,カント同様,適切な記述に関する約定が必要であることに気づいていない.

ヒュームに戻ると,彼自身はソフィストだが,彼の議論はつねに重要な問題に開かれていた.例えば:〔ヒュームに倣って〕私が食料品商に,「真理は「20シリング=1ポンド」のような観念間の関係か,「私がポテトを頼み,あなたが提供し,あなたが請求書を送った」のような事実のいずれかに存するのであり,「私があなたにこれこれの金額の借りがある」といった命題には当てはまらない」と言うとしよう.このように比較してみると,言及されている事実と「X は Y にこれだけの借りがある」という記述との関係の興味深さが明らかになる.この関係を「〜と総体的になまの事実である」(brute relative to) と呼ぼう.この関係は両方向に連鎖しうる.事実の集合 xyz が記述 A と総体的になまの事実のとき,A が成り立つなら xyz も成り立つが,xyz が成り立つからといって A が成り立つとは限らない (例外的状況に左右されるから.そして例外的状況は例示によってしか説明できない).また通常の状況でも,xyz は A の正当化にはなるが,A と同一なわけではない.また記述 A に眼目を与える制度的文脈が存在することが多い (が A 自体はその制度の記述ではない).(以上は "On Brute Facts" の要約である.)

私が食料品商にこれこれの金額の借りがあることを含む事実の集合は,「私は代金を踏み倒している」(I am a bilker) と相対的になまの事実となりうる.「踏み倒す」はもちろん「不誠実」(dishonesty) や「不正」(injustice) の種である.これらは全て「事実的に」(in a "factual" way) 捉えることができる.ここまで現にそうしてきた.

現代の哲学においては,不正な人間が悪い人間である仕方,不正な行為が悪い行為である仕方についての説明が必要とされる.この説明は倫理学に属する.そして,この説明を行うためには,「徳」としての正義の積極的説明が必要だろう1.しかし,それを説明するためには,まず徳がどのような種類の特徴 (type of characteristic) なのかを説明しなければならない.そしてそれは (倫理学ではなく) 概念分析 (conceptual analysis) の問題である.この問題はアリストテレスも十分明らかにできていない.これを言うには,そもそも人間的行為 (human action) とは何か,その記述は動機や意図にどう影響されるかの説明が必要であり,そのために記述・動機・意図概念の説明が必要だからだ.そういうわけで,きちんとした心理学の哲学ができるまで,この倫理学的課題に取り掛かることはできない.

「すべき」「必要だ」といった語は良さや悪さに関係する (例: 機械は油を必要とする.油なしに作動するのは機械に良くないからだ).こうした一般的な意味に加えて,今日ではこうした語は「道徳的」意義を持っている (例: 代金を踏み倒すべきではない).この意味が獲得されるのは,法によって義務付けられるという意味での「義務付けられている」「要求されている」と同一視されるときである.

この特別な意味が付与されたのはキリスト教においてである.キリスト教において倫理の法律的な捉え方 (law conception of ethics) が登場した.キリスト教は律法から倫理的諸観念を得ているからだ.(倫理の法律的な捉え方は神の実定法を受け入れる人々にしか出てこないわけではない.例: ストア派.) この変化により,義務づけ,許可,許しの概念は私たちの言語と思考に深く埋め込まれた.("ἁμαρτάνειν" の意味の変遷を見よ."ἁμάρτημα" に対応する "peccatum" は初めから "culpa" に結びついている.「不法な」(illicit) といった包括的な語句をアリストテレスは持っていなかった.)

倫理の法律的な捉え方が示しているのは,徳との合致は神法により要求されている,ということだ.立法者としての神を信じていなければ,この捉え方はできない.この捉え方が何世紀も支配し,それから放棄された場合,自然な帰結として,「責務」などの概念は根拠を失ったまま,特別な感じを呼び起こすものとして語られ続ける.(刑法が廃止され忘れられた状況で「犯罪的」という概念が残った状況を考えよ.) この放棄は宗教革命期に起こった (神法の遵守能力の否定).

したがってヒュームは,「である」から「べき」への推移について述べたとき,複数の異なる論点をまとめていたのだ.第一の論点は「である」から「借りがある」への移行に関して述べた.第二の論点は「である」から「必要だ」への移行に関して述べることができる.例えば,有機体の特徴から有機体に必要な環境を言うことはできる.だが,それがよく育つことをあなたが欲しているか (want) はそれとは別問題であり,欲していなければ「必要である」ことはあなたの行為に何の影響もない.どれほどの真理も,あなたの行為に影響することを論理的なレベルで主張することはできない.

一方で,あなたが必要としていることと,あなたが欲していることの間にはある種の必然的なつながりがある.もちろん何かを必要としつつ欲さないことはできる.だが,あらゆる必要なものを全て欲しないことはできない. (これは「必要」という語の意味ではなく,欲するという現象に関する事実である.)

第三の論点は,(ある種の真理・事実を表す「借りがある」「必要である」文と違って)「道徳的べき」は「である」文から推論できないというものだ.この「べき」は催眠的な力をもつにすぎず,何からも推論できない.「道徳的べき」文からも推論できない (そうした文はもはや無内容だから).

ヒュームや現代の倫理学者たちは,「道徳的べき」の観念にいかなる内容も見出せないことを示すという貢献をなしていただろう−−後者の人々がいかがわしい代替物を探してこの語の心理的な力を保とうとさえしなければ.これは倫理の法律的な捉え方の外部では無意味であり,これなしに倫理学を行うことはできる (アリストテレスがそうしたように).「道徳的に悪い」の代わりに「誠実でない」「慎みのある」「不正な」といった類を使うほうが良い.

さて,ミルからムーアまでの間に驚くべき変化が生じた.ミルは殺人や窃盗といった行為の特殊な帰結を計算することは問題にならないと想定していた.ムーアとそれ以降のイングランドの道徳理論家は,「正しい行為」とは最良の帰結を導く行為であるということを自明視している.ここから,全体的帰結についての判断に基づいて最良のことのために行為する場合,その人はよいことをしている (do well) ということが帰結する.「帰結する」というのは,明確にそう述べているとは限らないからだ; 実際には哲学者たちの議論は非常に複雑で多様な見かけを呈している.だが,全体としては似たりよったりである.例えばどの学説からも,「いかなる目的の手段としても無辜の人物を殺すことは正しくない」とは言えないということが帰結する.この考えはヘブライ-キリスト教的倫理とは両立しない.シジウィック以来の哲学者がこの倫理を除外する仕方で論じているのなら,「この両立不可能性が最重要で,議論の相違点は比較的瑣末だ」ということを把握していないのは,ある種の田舎根性だと言えよう.

変化が生じたのはシジウィックにおいてである.シジウィックは神法理論を瑣末な変種として注のなかでごくカジュアルに取り扱った.その注によれば,「最良の神学者たち」は,「神はその道徳的存在たる能力において服従すべき存在なのだ」と述べている."ἢ φορτικὸς ὁ ἔπαινος;" (EN 11778b) というアリストテレスの声が聞こえるようだが,まさしくその意味でシジウィックは卑俗である.

ここで重要なのはシジウィックによる意図 (intention) の定義である.それによれば,自発的行為の予見された任意の帰結をひとは意図している.もちろんこれは不正確な定義である.しかしこれを用いて彼は,「彼が予見していたか,また目的や手段として欲求していたかは,責任に何の関係もない」という,今日多くの人々が受け入れるテーゼを擁護する.「意図」という語をシジウィックより正確に使うなら,「意図していたかどうかは,予見できた結果に対する責任に何の関係もない」ということになる.だが,子供の養育責任のある人が意図的に養育から手を引く場合と,やむなく手を引く場合 (例えば不名誉な振る舞いか刑務所への入所かの選択を迫られ,入所を選ぶ場合) とでは,前者のほうが不品行だと言えるはずだ.

予見される帰結と意図される帰結の区別のこうした拒否は,古風な功利主義 (Utilitarianism) と「帰結主義」(consequentialism) の違いを説明する.この変化によって,かつてなら悪しき誘惑と見なされたであろう考慮が,道徳理論のなかで一定の地位を占めるようになったのだ.

浅薄さは帰結主義の必然的特徴である.アリストテレス主義者や神法を信じる者は,倫理的境界事例の判断に一種の決疑論を用い,周縁部で妥協しても中心は揺るがない.一方の帰結主義者は,「これは許容可能で,これは不可能だ」と言うことができない.また,境界事例ということを考えるために必要な基準を,帰結主義者は自分の社会や自分の属する集団からしか取ってこない.加えて,ありそうもない仮説的状況下で,何か悪いことを行うという仮説的決断が行われてよいという見かけが生じる.このことは,そうした状況が成り立っていないときに同様の悪い行為を行うことに同意する傾向を与えるに違いない.

道徳的「べき」の起源を認識しつつ神的法制定者の観念を斥ける人々は,それ抜きで法律的な捉え方を保とうと試みることがある.そうした試みには興味深いものがある.筆頭候補は社会の「規範」である.だが,規範への順応がよい結果をもたらすかは,その規範の内容に依存する.一般にはソクラテス的懐疑はよいものである.正義を調和と似たものと考えるソクラテス以前的な感じ方は私たちには疎遠である.

もう一つの可能性は「責務」を契約上のものとみなすものだ.だが,契約したことがなければ,契約関係にはない.言語使用がそうした契約に等しいという議論はありうるかもしれないが,説得力に欠ける.そもそも私たちは契約していると知らないのであり,そのことは契約の本性にとって破壊的である.

残る候補は「規範」を人間的な徳に求めることだ.人間という種は,思考・選択の活動という観点からして,これこれの徳を「有している」.それらの徳を有している「人間」が規範となる.だがこのとき「規範」はもはや「法律」の大まかな等価物ではなくなる.この意味でむしろアリストテレス的倫理観に近づく.

しかし同時に,「行為」「意図」「快楽」「欲する」といったいくつかの概念は,単に心理学の哲学の一部として探究されるべきであり,倫理学は完全に念頭を去るべきだ,ということは明らかではないだろうか.最終的に「徳」概念を考察することができるかもしれず,倫理学的探究はそれとともに始めるべきなのだ.

最後に,「べき」を特定の「道徳的」意義ではなく用いること,また道徳的な「悪い」(wrong) ではなく「不正な」(unjust) を用いることの利点を述べておく.

まず,本質的に不正な (intrinsically unjust) 事柄と,ある状況下で不正な事柄は区別できる.無実の者を法的に罰するのが本質的に不正である.一方で,法的手続きなしに財産を奪ったりするのは,標準的な状況下では不正だが,本質的に不正なわけではない.こうした事例では境界線の引き方に複雑な問題が伴う.

本質的に不正な事柄に関して言えば,例えば「無実の者を法的に罰する」という記述を変更させないいかなる状況や帰結も,その行為を不正とする記述を変更することはできない.この点に「道徳的によい・悪い」などに対する「不正な」の長所がある.

倫理学はまだ可能でないとはいえ,よい人間が公正な人間であること,公正な人間とは (帰結や利益を理由として) 不正な行為に携わることを習慣的に拒否する人間であることは明らかである.不正かどうかが予期される帰結によって決まる場合ももちろんあるが,そうでない場合もある.このことをどう説明するかは問題だが,このことの当否を問題だと考えるのは性根が腐っている.

道徳哲学者は,「不正だという記述が事実のみを根拠に適用できるものなら,不正な行為が道徳的によいこともありうることにならないか」という反論を提示するだろう.だが,この「道徳的によい・悪い」はもはや無内容で,純粋に心理学的な効果しか有していない.そこで道徳的な「べき」を捨て去るとして,「不正な行為を働く必要がある場合があるのではないか」と問うことはもちろん可能である.そして答えは様々でありうる.


  1. やや唐突.