『分析論後書』I.3 知識不可能主義と循環的論証許容主義の批判

APo. I.3.


[72b5] 或る人々には,「第一のものを知らねばならないがゆえに,知識はありはしない」と思われており,一方で或る人々には,「ありはするが,しかし全ての事柄に論証があるのだ」と思われている.これらのどちらも真ではなく必然でもない.

[72b7] というのも,他の仕方で1知識することはありえないと想定する人々は,「後の事柄を先の事柄ゆえに知るのであるが,そこには第一の事柄はないのだから,無限に遡行することが相応しい」と考えており,そう述べるのは正しいからだ.というのも,無限な事柄を扱いきるのは不可能だから.また,もし止まり,諸原理があるとして,少なくともそれらの論証がない以上それらを知ることはできない〔と述べる〕.まさにこれが唯一の知ることであるとこの人々は主張する.もし第一の事柄を知ることができないなら,そこからある事柄を端的に知ることも支配的な仕方で知ることもできず,もしそれら第一の事柄があるとするなら,基礎措定からしか知りえないのだ.

[72b15] もう一方の人々も知ることについては同意する.というのも,論証からのみある〔と述べている〕から.しかし〔この人々が言うには,〕全てのことに論証があるとすることを何ものも妨げない,というのも,論証が循環的に生じることや,相互的に生じることがあってよいからだ.

[72b18] 我々は,あらゆる知識が論証的であるわけではなく,無中項の事柄の論証不可能な知識があると主張する.そしてそうであることが必然的なのは明らかだ.というのも,先の事柄を知ることが必然であり,かつそれらから論証がある一方で,どこかで止まるなら2,それら無中項の事柄が論証不可能なのは必然的だから.

[72b23] これらのことどもを我々はこのように述べる.そして知識だけではなく,知識の何らかの原理もあると我々は主張する.その原理によって,我々は諸定義を認識するのである.

[72b25] そして,循環的に端的に論証することが不可能なのは明らかだ――先の,よりよく認識される事柄から論証があるべきである以上は.というのも,同じ事柄が,或る事柄より先かつ後であることは不可能だからだ――一方の事柄は我々に対して,他方の事柄は端的に,というように,別の仕方でそうなのでなければ.まさにそうした仕方で帰納は認識を生み出すのだ.そういう仕方だとすると,端的に知ることがうまく定義されることができず,むしろ二通りになる.あるいは,一方の論証は端的な仕方でありはせず,我々にとってよりよく認識される事柄から生じるのだ.

[72b32] 論証が循環的にあると述べる人々には,今述べられたことだけではなく,次のことも帰結する.すなわち,「このことがあるなら,このことがある」ということ以外に何も言わないということが,である.そのようにして全てのことが容易に示される.三つの項が措定されればこのことが帰結することは明らかである.というのも,多くのものを通って戻ってくると主張しても,少ないことどもを通って戻ってくると主張しても,何も変わりないし,少ないものを通ってと言おうが二つを通ってと言おうが何も変わりないから.すなわち,A があるとき必然的に B があり,B があるとき Γ がある場合,A があるとき Γ があるだろう.そして A があるとき必然的に B があるなら,この B があるとき A があるだろう (というのも,これが循環的なものであったから).A をそれについて Γ があるものと措定されるとしよう.すると,「B があるなら A がある」と言うのは,「Γがある」と言うことであり,これは「A があるなら Γ がある」と言うことである.Γ は A と同一である.したがって,循環的に論証があると主張する人々が語るのは,「A があるなら A がある」ということに他ならない,ということが帰結する.こうして,あらゆることを示すのは容易になる.

[73a6] そうではなく,このことが可能なのは互いに付随することどもについてだけなのである.ちょうど固有な事柄のように.そしてもし一つのことが措定されるなら,他のことがあるということは決して必然ではない,ということは,既に示された (私が「一つのこと」と言うのは,一つの定義も一つの措定も措定されないとき〔 欠落 〕).最小の二つの第一の措定からあってよい,推論することもあってよい以上は[^2].そしてもしA が B と Γ に付随し,これらが相互に,また A に付随するなら,そのとき互いから,第一格において,要請される全ての事柄を示すことがあってよい,推論についての書において既に示されたように.他の諸格においては推論は生じず,把握されたことどもについても生じないということも既に示した.換位的に述定されない事柄はどうやっても循環的に示すことはできず,したがって,諸論証のうちにあるそうした事柄は少ないのだから,互いから論証があり,それゆえ全てに論証がありうると言うのは,空疎であり不可能である.

内容要旨

Barnes (1994) を参考にした.

  • 二つの (誤った) 立場がある: (1) 第一のものを知らなければならない以上,知識はない.(2) 知識は全ての事柄にある.
  • (1) の人の立場: 知識  S = {P_1, P_2, ..., P_k, ... P_n} (ただし i \gt j なら P_iP_j に先行する) について,(前提1) P_i の知識は P_i の論証を必要とし,(前提2) 任意の P_j の知識が P_i (i\gt j) の知識を必要条件とするので,(結論) 任意の知識が無限に多くの命題の論証を必要とする.しかるに,それは不可能.ゆえに,第一の事柄 P_n は基礎措定からしか知りえず,端的には知りえない.
  • (2) の人の立場: 循環的ないし相互的な論証が可能 (前提1を採るが前提2を斥ける).
  • 我々の立場: 無中項の事柄の論証不可能な知識があり,そこが終点になる (前提1を斥け,前提2を修正する).
  • 循環的論証は不可能である:
    • (論証I)「よりよく認識される」関係は非対称的: x が y よりよく認識され,かつ y が x よりよく認識されるなら,前者と後者で意味が違うことになる.そうだとすると,端的な知識が定義できていない.
  • (論証II) 循環的論証は同語反復でしかない.
    • 一般に (X) A \rightarrow B, B \rightarrow \Gamma \vdash A \rightarrow \Gamma.
    • ここで (Y) 〔全ての A, B について?〕A \rightarrow B かつ [B \rightarrow A] とする.そして A\Gamma とすると,(X), (Y) からは \Gamma \rightarrow \Gamma が帰結する.
  • (論証III) 相互に付随する事柄 (e.g., 固有性) にしか循環は起こらず,そうした事柄は多くない.

先行研究

Barnes (1994). 訳・要旨に反映していない部分.以下で言及していない 72b25 の議論はやや複雑で眼目がよく分からなかった.

  • 72b5 知識の無限後退の問題: Tht. 209eff.; Met. α2; Theoph. Met. 9b21; Sext. Adv. Math. VIII.347.
    • 本章では三つの立場が扱われる:
      1. 知識の不可能性を結論する立場,
      2. 知識が無限後退を含まない (循環する) とする立場,
      3. 全ての知識が論証的だというわけではないとする立場.
    • 第一はアンティステネス,第二はクセノクラテスないしメナイクモスだと言われる.後者は昔のアリストテレスのことかもしれない.
    • A3 の内容は後にピュロン主義者が発展させた.
  • 72b15 (前提1) を採りつつ S を有限とすると循環を認めるほかない.
    • 循環論法につき cf. APr. II.5-7 (Barbara だけが循環的,その他は semi-circular). ただし全命題が論証済みという前提はない.
  • 72b18 *「知識の原理」(72b24) という表現はここのほか I.33, 88b36; II.19, 100b15. 後者では νοῦς (comprehension) と同一視される.ここや I.33 でも同じであろう.
  • 72b32 循環論法に反対する第二の論証.いくつか問題がある: (i) 「A ならば A」を syllogistic で表現するには工夫が必要.(ii) 論証はたんなる含意ではない (がこの点は書き直せる).(iii)「A ならば A」しか言えてないことは示せていない3
  • 73a6 第三の論証.APr. II.5-7 が並行的.
  • 73a8「既に示された」: APr. I.25, 41b36-42a40.

  1. OCT と異なり主要写本に従い Barnes に倣って ἄλλως を読む.

  2. Barnes の句読法に従う.

  3. ここは解釈の余地がありそう.