『メタフュシカ』Γ8 「全てが真である/偽である」説の批判

Met. Γ8.

[1012a29] 以上が規定されたとき,或る人々が述べているように,一通りに,全てのことどもについて語られるものどもがあることも不可能だということは明らかである――或る人々は何ものも真ではないと言っており (というのも,対角線が共約的であることと同様の仕方で全てがあることを何ものも妨げない,と彼らは主張するから),或る人々は全てが真であると言っているのだが.というのも,これらは1,ほとんどヘラクレイトスの言論と同一の言論だから.というのも,全てが真であり,かつ全てが偽であると述べる人は,これらの論の各々を別々にも述べるのであり,したがってもし前者のことどもが不可能であれば,後者のことどもも不可能であろう.

[1012b2] さらに,同時に真ではありえない矛盾言明は明らかにある.また,全てが偽でもありえない.もっとも,以上述べたことどもから,可能であるといっそう思われてはいるのだが.しかし,ちょうど上記の論において述べられたように,全ての事柄に,何かがあるか,それともあらぬかといった言葉を要請すべきではない.むしろ,何かを意味表示するといった言葉を要請すべきなのであり,したがって,何かが真なることを意味表示するか,それとも偽なることを意味表示するかを捉えながら,定義から対話すべきである.というのも,矛盾言明の一方の片割れは真であることが必然であるから.

[1012b11] さらに,もし全てのことを言明するか否定を言明するかであることが必然であるなら,両方が偽であることは不可能である.というのも,矛盾言明の一方の部分が偽であるから.

[1012b13] こうした論の全てには,言い古されてきたことが成り立つ.すなわち,それらの論はそれら自身を破棄するのだ.というのも,全てを真だと述べる人々は,それと反対の論も真となすのであり,したがって彼ら自身の論が真ではないものとするが (というのも,反対の論はそれを真ではないと主張するから),一方で全てを偽であると述べる人は自分自身をも自ら偽なものとするから.前者の人が反対の論を単一の真でないものとして排除し,後者の人が自分自身の論を偽でないものとして排除するなら,それでもやはり,無限個の真なる論と偽なる論を彼ら自身が要請することが帰結する.というのも,真なる論を真だと述べる論は真であり,これは無限に進むから.

[1012b20] 全てが静止していると述べる人々も,全てが動いていると述べる人々も,真なることを述べていないことは明らかである.というのも,一方でもし全てが静止しているなら,同じことどもがつねに真でありまた偽であるだろうが,このことは変化していると現れている (というのも,述べる人自身がある時点でありはしないし,また今度はありはしないだろうから).他方でもし全てが運動しているなら,何ものも真ではないだろう.それゆえ全ては偽だろう.しかしそれが不可能であることは示されてきた.

[1012b28] さらに,あるものが変化することは必然である.というのも,変化とは何かから何かへと起こるものだから.しかし実際,全てのものはある時に変化しあるいは静止するのであって,何ものもつねに変化するかつねに静止していはしない,というわけではない.というのも,運動するものを常に運動させる何者かがあり,第一の運動させるものそれ自身は不動だから.

内容要旨

  • 全てが一様に真である (ないし偽である) ことはありえない.
  • 同時に真ではありえない矛盾言明は存在する.
    • ただし,「ある」「あらぬ」ではなく意味表示から論駁を組み立てる必要がある.
  • 矛盾言明の一方だけが偽なので,両方が偽ではありえない.
  • 周知の論駁: これらは自己論駁的.
    • 全てが真なら,「「全てが真」は真でない」も真.
    • 全てが偽なら,「全てが偽」も偽.
    • 仮に「全てが偽」だけは真,と主張しても,「「全てが偽」は真」も真となり,無限背進する.
  • 「全てが静止している/全てが動いている」も偽.
    • 全てが静止していれば,全てがつねに真/偽であることになるが,これは現れに反する.
    • 全てが動いていれば,何ものも真ではなくなり,(先述の通り) 不条理.
  • 「ある」ものは変化する.ただし,変化しないものは存在する (不動の動者).

先行研究

CN の太字部分だけ.

  • 1012b5-10: 5-8 は Γ7, 1012a21-23 の再論であり,「意味表示から出発すべき」という要請の適用対象となる,議論の素材となる部分がここで提示されている.
  • 1012b24: (a) もし全てが静止しているなら,全てが常に真/偽である (現象学的),(b) 全てが動いているなら,全てがつねに偽である (論理学的に論証済み),(c) 自然学的/神学的実在は,あるとき静止しており,あるとき動いているものがあることを強いる (ἔτι, 28-31).
  • 1012b28-31: 「全てがつねに真/偽である」――安定させたとき,偽は真と同じ特徴を持つようになる (De M.X.G. 979a36).「全てが静止している」と述べる人自体,生成物であり,可死である.「全てが運動している」なら何ものも真ではなくなる.この可能性は既に否定されている.一方で,掉尾を飾る二つの議論は,「全ては真であり,かつ全ては偽である」という第三の立場の自然学的/存在論的ヴァージョンに反対するものである.

  1. CN に従い Hecquet-Devienne に反して Ab の οὗτοι を読む.EJ の αὐτοῖς は読みにくい (エケも実質的に主語のように訳している).CN は珍しく断りなしに Ab の読みを採っている.