『メタフュシカ』Γ6 #1 プロタゴラス説の論駁

Met. Γ6, 1011a3-b3.

[1011a3] だが,これらのことに納得しており,かつこれらの議論だけを語っている人々のうちにも,アポリアーに陥っている人々がいる.というのも,健康な人を見分ける人は誰なのか,また一般に,各々の事柄について正しく判断する人は誰なのか,をこの人たちは探究するからである.こうしたアポレーマは,我々が寝ているのか起きているのかというアポリアーに陥るのと同様である.こうしたアポリアー全てが同一であることができる.というのも,その全ての説明は次のようなことどもであることが相応しいと考えているから.というのも,彼らは原理を探求しており,原理を論証を通じて把握しようと試みているのだが,少なくとも,彼らが納得していないことどもは全て,行為においては明らかなのだ.だが,我々が述べた限りのことは,この人々の苦境なのだ.というのも,言論がないようなことどもの言論を彼らは探求しているから.というのも,論証の原理は論証ではないから.

[1011a13] それゆえ,この人々がこのことに納得するのは容易ではなかろう (というのも,把握するのは難しくないから).他方,議論において力を求める人々は,探求することができない.というのも,反対のことどもを述べるそのときに,反対のことどもを述べるのが相応しいと考えているから.

[1011a17] もし全てが何かに対するプロス・ティものではなく,むしろ何かがそれ自体としてもあるのなら,現れていること全てが真ではありえない.というのも,現れていることは誰かに現れているのだから.したがって,全ての現れが真であると述べる人は,全ての〈あるもの〉どもを何かに対するものとしている.それゆえに,言論において力を求め,同時に言論を被るのが相応しいと考える人々は,現れているものが,現れている人にとって,現れているときの仕方で,そのようである限り,そのようである仕方でしかありはしないということを見て取らねばならない.彼らが議論を被るが,そのようには被らない場合,彼らは直ちに反対のことどもを語ることになってしまうだろう.というのも,同じものが視覚に基づいて蜂蜜だと現れるが味覚によってはそう現れないことがあってよく,また両目があっても,似ていない場合には,各々の視覚によって同一だと現れないことがあってよいのだ.そのとき,先述の諸原因を通じて現れが真であると述べ,またこのことを通じて全てが同様に偽かつ真であると述べる人々に対しては――というのも,すべての人々に同じだと現れることも,同じ人につねに同じだと現れることもなく,むしろしばしば反対のことどもが同時に現れるのだ (というのも,指を交差するとき触覚は二つだが,視覚は一つである,と言うから)――,しかし,何かが同一の感覚によって,また同じことに基づいて,同様に,かつ同じ時にあり,その結果それが真であるわけではないだろう.むしろおそらくそのことゆえに,アポリアーを通じてではなく論のために論じる人々は,「これは真ではないが,この人にとって真である」と述べねばならないだろう.

要旨

  • アポリアーに陥っている人は,実践上何らかの基準に従っていると認めても,なお基準の基準を問うことがある.
    • これも誤って原理を問うている.
  • 他方で,矛盾があると強いて主張する人は,無矛盾律の存否を探求できない (問答法において帰謬法が使えないから).
  • 全ての現れが真ならば,全ての〈あるもの〉は相対的.
    • だが,現れは人・時・現れる仕方 (感覚モダリティ),現れの様式に限定される.
    • 「反対のものが同時に現れるのだから,全てが同時に真かつ偽だ」という人々には,以上の限定を加えなければならない.

先行研究

Cassin-Narcy:

  • 「これらのことに納得しており,かつこれらの議論だけを語っている人々」(a3-4): Γ5 における反論者の二類型が再登場する.だが,Γ5 の議論を承けて,両者の区別は曖昧になっている.Γ5 では,真面目な側の人々 (良い者,le groupe des « bons ») の確信の深さも疑義に付された (1010b3, b9f., etc.).ここでも,疑われていることは「行為においては明らか」だとされる.他方で,ためにする議論を行う人々 (悪者,le groupe des « mauvais ») も,ここでは τινες οἳ ἀποροῦσι に分類されている.したがって,ここでは反論者の区別が再現されつつ,全員が真正の苦境に立たされていると想定して,この再現を屈折させている.悪者側を (少なくとも部分的に) 復帰させるこの試みは a22 で確証される.
    • 他方で,この冒頭は Γ4 冒頭も響かせている: εἰσὶ δέ τινες οἵ ... (1995b35).τινες が同じ人々を指すので,これは単なる偶然ではない.この人々は Γ6 では反論を激化させ,基準のみならず (cf. 1009b2-6) 基準の基準も要求する.これに対してアリストテレスは,後者の要求も「証拠を証明せよ (prouve ta preuve)」という Γ4 と同じ異論に帰着することを示し,原理の論証の不可能性という Γ4 と同じ応答を行う.ここでは説得可能な相手のみに応答しているが,既に Γ4 で両方に応答している (1006a8-11, 18-26).
    • 「これらのこと」「これらの議論」は直前ではなく 1009a22-1010a15 を指す.したがって,ταῦτα πεπεισμένων (a3) が指すのは,τοῦτο πεισθεῖεν (a14) で言及される無限背進を斥ける議論とは対照的な議論 (la persuasion opposée à celle évoquée par τοῦτο πεισθεῖεν) である.
  • "οἱ δ᾽ ἐν τῷ λόγῳ τὴν βίαν μόνον ζητοῦντες ἀδύνατον ζητοῦσιν: ἐναντία γὰρ εἰπεῖν ἀξιοῦσιν, εὐθὺς ἐναντία λέγοντες" (15-6): アレクサンドロスは ἐναντία ... εἰπεῖν ἀξιοῦσιν を 'ἀξιοῦσιν εἰς ἀντίφασιν περιαχθῆναι' と言い換え,εὐθὺς ἐναντία λέγοντες を ἐν ἀρχῇ ἐναντία τίθενται と言い換える:「反論者の主張は「反対者が同時に成り立つ」という主張に帰着される」.
    • だが,アレクサンドロスの取り方は文法的に厳しい:
      1. 仮に εἰπεῖν と ἀξιοῦσιν が異なる主語を取ると認めたとしても (前者の主語が « on » ないし « leur adversaire » となる),ἐναντία εἰπεῖν を「反論する (contredire)」の意味には解しにくい.
      2. εὐθὺς は通常 « dès le départ » というより « aussitôt » の意味.
    • 近年の解釈者 (Ross, Tricot, Kirwan) は,ἐναντία γὰρ εἰπεῖν ἀξιοῦσιν を "they claim the privilege" (Ross) と解し,εὐθὺς ἐναντία λέγοντες を論証と無関係な "supplementary ctiricism" と理解する.
      • しかし,こう理解すると,(1) εὐθὺς ἐναντία λέγοντες が全く新しい論点の導入となってしまう上,(2) 一文がなぜ論駁不能な理由になるのか分からない (反論理由を尋ねることで強制力 (βία) を行使できる).
    • Colle は « car dès qu'ils disent des choses contraires entre elles, ils revendiquent ausitôt le droit d'en dire » と訳す.この解釈は上述の難点を克服している.予めあらゆる論駁を拒否できる,ということではなく,矛盾が生じたときに,それが議論における敗北を意味しなくなる,ということ.
      • なお Cassin-Narcy は不可能性をより深く解釈する可能性を留保しておく: 論理的のみならず超越論的な不可能性がある (pp.51-53).
  • "τοῖς τὴν βίαν ἐν τῷ λόγῳ ζητοῦσιν, ἅμα δὲ καὶ ὑπέχειν λόγον ἀξιοῦσιν" (b21-22): 下線部において,ためにする議論を行う人々の間に副次的な分化が導入される.すなわち,矛盾がともに真だと認める場合でも,ὑπέχειν λόγον しようと考える限りで,議論の一貫性に依存することになる.Γ4, 1006a12-15 の「何かを言う」人々と「何も述べていない」人々の区別が再び登場している.
    • なお ὑπέχειν λόγον は問答法の応答者の仕事 (Xen. Mem. IV.4.9; Arist. Top. I.1, 100a20).Top. の Brunschwig 訳に従い « soutenir un discours » と取る1.ここではプロタゴラスのテーゼ自体が一つの δόξα に仕立て上げられている.
  • 'τῷ αὐτῷ' (a26) は人・物両方に取れるが,ここでは物で取る.
  • "ἐπεὶ πρός γε τοὺς ... φάσκοντας ..." (1011a28ff.): 動詞が不在であり,アレクサンドロス以来欠落が想定される (アリストテレス自身の省筆と見る論者もいる).補いの選択肢は二通り: (1) ἀληθὲς εἶναι (a30) の後に欠落を置くか,(2) ἀλλ᾽ οὔ τι (a34) を主要な区切り (l'articulation majeure) とみなし πρός γε τοὺς ... ψευδῆ καὶ ἀληθῆ を一まとまりと考えるか.この区分は,感覚の違いによる議論をアリストテレスと反対論者のどちらに来するかの区分に合致する.
    • アレクサンドロスと Jaeger は (1) を採るが,解釈は全然異なる.アレクサンドロスは ἀληθὲς εἶναι の後に ῥᾴδια ἡ ἀπάντησις を挿入し,καὶ διὰ τοῦτο (= ἕπεται γὰρ αὐτοῖς) 以降は反対論者 (ὑπέχειν λόγον する穏健な (modérés) プロタゴラス主義者) への ἀπάντησις とする.また触覚-視覚 (a33-34) の例を視覚-味覚 (a25-27) の例と関連付け,「現れが真である」と言いうる条件を示すという同じ目的に基づいていると理解する.ἀλλ᾽ οὔ τι 以降は a23-24 の単純な反復である.
    • 他方 Jaeger (Hermes 52, 513-516) によれば,ἐροῦµεν ὅτι συμβαίνει αὐτοῖς τὸ πᾶσι φαινόμενον ἀληθὲς εἶναι のような文が欠落している.この場合反対論者が穏健かどうかは問題にならない.πρός γε τοὺς ... ἀληθὲς εἶναι はプロタゴラス主義者の主張,καὶ διὰ τοῦτο 以降はアリストテレスの反論.
    • (2) の論者 (Bonitz, Ros, Colle, Kirwan) の間にも同様の対立が見られる: (A) ἐπεὶ πρός γε τοὺς ... ψευδῆ καὶ ἀληθῆ, (B) οὔτε γὰρ ἅπασι ... ἡ δ᾽ ὄψις ἕν, (C) ἀλλ᾽ οὔ τι ... τοῦτ᾽ ἂν εἴη ἀληθές とすると,
    • Cassin-Narcy の理解は Ross に似る: プロタゴラス説は付加条件なしには矛盾し,条件を特定すると定言的な体系 (système catégorial) に属する: アリストテレス的な現れの分析 (a21-28) に基づかない限り矛盾する.したがって,(A) はプロタゴラス説支持者の反論,(B) は挿入句,(C) は第二論駁で,カテゴリーを用いて規定された現象については「真である」と言える (i.e.「同時に真でも偽でもある」という未規定性を剥ぎ取りうる) と示す.
      • ἐπεί (a28) は ἔπειτα のように理解する.ταὐτὰ φαίνεσθαι (a31) は ταὐτὰ を主語として理解する (現れの多様性を制限しないため)2.κατὰ τὸ αὐτὸ (a35) は以降の規定とともに特定の感覚器官に適用される.τοῦτ᾽ (b1) は τι (a34) を受ける.

  1. 和訳ではむしろ R. Smith の『トピカ』注解の理解に従った (はず.記憶があいまいなので要確認).いずれにせよ大勢には影響しない.

  2. 採っていないが,検討の余地あり.