Met. Γ5 1010b1-1011a2.
[1010b1] 現れることが全て真なのではないという真理については,それは第一に,感覚は固有のものについては偽ではないにせよ,表象は感覚と同一ではないからであり,そして次のことをアポリアーとするなら,驚くのが相応しい.すなわち,大きさや色である限りのものは,遠くからの人々に現れるようなものか,それとも近くからの人々に現れるようなもののどちらなのか,また健康な人に現れるようなものと,病人に現れるようなもののどちらなのか,また弱い人に現れるようなものと強い人に現れるようなもののどちらがより重いか,また眠る人に現れるようなものと起きている人に現れるようなもののどちらが真か.それというのも,我々がそう思っていないことは,明らかだから.実際,リビアにいながら夜にアテナイにいると想定する場合に,オデオンに向かいはしないのである.さらに,未来のことについては,プラトンが述べているように,医者の考えと無知な人の考えが同等に権威あるわけでは決してない.例えば将来健康になるだろう人と,そうでない人とについてのように.
[1010b14] さらに,感覚そのものに関しても,他のものに属する固有なものの感覚と,近いものや当の感覚自体に属するものの感覚は,同様に権威あるわけではなく,むしろ色については味覚ではなく視覚が,味については視覚ではなく味覚が権威あるものなのである.これら諸感覚の各々が,同じ時に,同じものについて,同時にかくかくであり,かつありはしないと述べることは決してない.しかし別の時であっても受動状態に関しては異論が生じることはないのであって,むしろ受動状態が付帯するところのものをめぐって異論が生じるのだ.私が言うのは,例えば同じ酒が変化しているか,あるいは体が変化しているときに,あるときは甘く,あるときは甘くなく思われうるということだ.だが甘いものは,それが甘いときにあるあり方では,決して変化していなかったのであり,むしろそれについてはつねに真であって,そして甘くあるだろうものは,必然的にそのようにあるのだ.しかし,そのことを,これら全ての言論が破棄しており,何ものにも本質がないのと同様に,何ものも必然的にありはしないのだ.というのも,必然的なものはあのようにもこのようにもあってよいわけではなく,したがって何かが必然的にあるなら,かくかくであり,かつありはしないということはないから.
[1010b30] また総じて,もし感覚対象のみがあるなら,魂を持つものがなければ,何ものもありえないだろう.というのも,感覚がありえないから.ゆえに,感覚対象も感覚印象もない (というのも,それは感覚する人の受動状態だから) ということはおそらく真である一方で,感覚を生み出す基礎に置かれるものがありはしないということは,感覚がないとしても,不可能である.というのも,感覚そのものは感覚自体の感覚ではなく,感覚とは別の何かがあるのであって,それが感覚に先行することは必然である.というのも,運動させるものは運動するものに本性上先立つのであり,もしこれら自体が互いに対して語られるとしても,やはりそうなのである.
要旨
- 「現れ = 真」ではない: 固有の感覚は真だが,表象 ≠ 感覚.
- ソフィストも実際にはより権威ある人に基づいて判断している.
- 同様に,感覚対象については,対象に関わる感覚 (固有感覚) だけに権威がある.そして,固有感覚が同時に「
かつ
」と述べることはない.
- 「感覚対象のみがある」場合,(i) 魂をもつ感覚主体がなければ,感覚対象も感覚印象もない.(ii) また,感覚は (当の感覚とは異なる) あるもの
の感覚であり,
は感覚に本性上先行し (∵ 感覚は運動である),感覚と独立にある.
先行研究
Cassin-Narcy (前回の部分を含む内容要旨)1:
- 既に以下の論点が提起されていた:
- (α) あらゆる感覚対象は変化する (1010a7),
- (β) 変化するものについて真なるものはない (a8),
- (γ) あらゆる点・あらゆる仕方で変化するものについては何も真なることは言えない (a9).
- アリストテレスは逆の順序でこれらに応答した:
- (γ') 変化は外的要因 (基体,起源,原因) を必要とする (a18-22),
- (β') 量的変化における形相の安定性 (a23-25),
- (α') 変化するのは世界の一部だけ (a26-32),変化しない自然の存在を示している可能性がある (a33-35).
- 以上の自然学的論駁は,変化から矛盾の真理性を示す議論への論駁で締めくくられる.
- 次いでアリストテレスは,〈変化するもの〉から〈現れているもの〉に向かう.論敵は,現象する実在 (réalité phénoménale) と感覚印象 (l'impression ressentie) の分離不可能性を援用し,感覚の不安定性を持ち出す.これに対してアリストテレスは,論敵の論拠が,(i) 思考が感覚に還元される,(ii) 感覚は性質変化である,という二つの仮定を現金化している (monneyant) と指摘する (b12-15).これに対してアリストテレスは次のように論じる:
- (ii') 感覚は固有のものについては真である (b2): もし感覚が性質変化であるなら,「固有のもの」は「他の」内容にとって変わるだろう2.
- (i') 表象と感覚は異なる (b3): ここで思考と感覚の同一性が斥けられる.
- 感覚の決定不可能性に関するソフィスト的議論 (b2-11) は,実践を引き合いに出す Γ4, 1008b12-27 と同様の議論によって斥けられる.
- 同様に,感覚を固有感覚に還元する議論 (b15-30) も,Γ4 の意味論的手続きをうまく利用している.意味 (sens) の規定が現実的な規定のモデルをなすのみならず,甘さが感覚 (sens) を持つために,アリストテレスは甘さの本質について語りうるのだ3.
- 最後に,自然学的/ソフィスト的議論の両方が一緒に論駁される仕方を示す (b30-1011a2).