『メタフュシカ』Γ5 #2 感覚と思考の同一視に基づく相対主義.学説誌的整理

Met. Γ5 1009a38-1010a1.

[1009a38] 同様にして,現れに関する真理も,幾人かの人々にとっては,感覚されるものどもから来ている.というのも,真なることは多さによって判断することも少なさによって判断することも適切でないと考えられており,同じものが味わう人々に甘いと思われる一方,別の人々には苦いと思われるのだから1,結果として,もし万人が病気であるか,万人が正気を失っており,二三人が健康ないしは理性を保っているとすれば,この人々が病気であり正気を失っていて,他の人々はそうではない,と思われたであろう.他方さらに,他の動物の多くには,また我々にも,反対のことどもが現れており,また各々それ自身にとっても同じものに対して同じことどもが感覚に即してつねに思われているわけではないと考えられている.ゆえに,これらのうちどのようなものが真ないし偽であるかは,明らかではない.というのも,これらのもの,あるいはあれらのものが真でありが,同様にそうであるわけではないから.それゆえにデモクリトスは,何ごとも真ではないか,あるいは少なくとも我々には明らかでないのだ,と主張したのだ.

[1009b12] 総じて感覚は思慮なのであり,感覚は性質変化であると想定しているゆえに,感覚に即して現れていることは必然的に真であると,彼らは主張する.というのも,これらのことや他のことどもから,エンペドクレスやデモクリトスや,他の人々のほとんどどの人も,こうした考えに囚われていたのだから.というのも,エンペドクレスも状態が変化すると思慮が変化すると主張するから.「というのも,現れているものに対して人間たちの思慮は増大するから」.そして他の論考においても,「他の者どもになる限りで,彼らにとって思慮も別のものどもとして生じ来る」と述べる.そしてパルメニデスも同じように主張する.「というのも,非常にしなやかな四肢をそのつど混合するように,知性は人間に生じ来る.というのも,同じものが,思慮する限りのものであり,人間たち全て,各人にとっての四肢の本性であるから.というのも,より多いものが思考されるものだから」.アナクサゴラスが友人の誰かの前で述べた箴言も思い出される.すなわち,「人々が想定するようなことどもは,彼らにとってあることであるだろう」.ホメロスもこの考えをもっていたように見える,と彼らは言う.というのも,ヘクトルが打たれて正気を失い,思慮ここにあらずであった,と歌っていたから.それは,正気を失っている人々も一方で思慮しているが,しかし同じことを思慮してはいない,という理由からだった.それゆえ,もし両方が思慮であるなら,〈あるもの〉どもも,そのようにあり,かつそのようにありはしないことは明らかだ.かくして,帰結することは,もっとも困難である.というのも,もし真でありうることをこのうえなく見てきた人々が――この人々はそれを最も探究し愛している人々である――真理に関してこうした考えを持っており,それを表明しているなら,哲学しようと試みている人々が意気阻喪するのは,尤もではないだろうか.というのも,〔この人たちの考えが正しければ,〕真理を探究するのは,飛ぶ鳥を追いかけることだろうから.

要旨

  • ある人々が唱える「感覚されることが真である」説2:
    • (¬MR) 真偽は多数決では決まらない (多数決原理の否定).
    • 〔その理由.〕 x が或る人には F, 別の人には G と思われる (F, G は反対の属性).ゆえに,(MR なら) ほぼ全員が正気でないか病気である場合,正気ないし健康な人が正気でない・病気であると思われることになる.
    • 動物にも人間にも,個体間で,ないし個体内でも別の場合に,xF だと思われることも \lnot F だと思われることもある.ゆえに,どちらが真かは明らかでない.
  • この人々は「思慮 = 感覚 = 性質変化」と考えているので,感覚的な現れは真だと考える (エンペドクレス,デモクリトスパルメニデス,アナクサゴラス,ホメロス).

先行研究

Cassin-Narcy:

  • δοκεῖν Ab, δοκεῖ EJ. 後者の方がよい (前者の場合 δοκεῖν は προσήκειν (οἴονται) との並列になるが,ὥστε 以下を οἴονται に入れることはできない).τὸ μὲν は τὸ δ᾽ ではなく ἔτι δὲ に対応し,その後の φαίνεσθαι, δοκεῖν も οἴονται が支配する3.7 の περὶ τῶν αὐτῶν Ab も論点先取になるため採れない.
    • この箇所のソフィスト的議論の再構成については,これをプロタゴラスと結びつける Tht. 153d-154a のほか,De Merisso Xenophane Gorgia (980a19-b19) を挙げられる; 後者はセクストスのヴァージョンより正確である (セクストスはゴルギアスにこの議論を結びつける.Cf. Annas & Barnes p.11f.).
  • 「少なくとも我々には明らかでない」(b12) はデモクリトスの「不可視なもののみが真」という主張を歪めたもの (Bollack).これ以下の諸々の引用も同様の扱いを受けていると考えられる.
  • φρόνησις = αἴσθησις = ἀλλοίωσις (b12-13): φρόνησις = αἴσθησις は思考の主観性を強調するものではない.問題はむしろ後者の等式であり,これによって φρόνησις = αἴσθησις が根本的に受動的なものとして規定される.
  • "ἕξιν" (b18) は術語的な意味ではない.
  • 「人々が想定するようなことどもは,彼らにとってあることであるだろう」(b26-27): この発言も,対象による思考の変容という「現象学的」教説に照らして読むべきである.今日言われるような思考による現実の支配 (souveraineté) や,「各々に各々の真実がある」のような懐疑主義 (un scepticisme du genre « à chacun sa vérité ») とは全く異なる.
  • 'ἀλλοφρονέοντα' は Il. XXIII, 698 でエウリュアレについて言われる.ヘクトルが茫然とする箇所における形容は 'ὀλιγοδρανέων' (XV, 246; XXII, 377); ἀλλοφρανέων が古い異読であった可能性はある.
    • ホメロスの引用は二つの相補的な理由から結論の位置を占めるのが正当である:
      1. ἀλλοφρανέων は ἀλλοίωσις と φρόνησις を結びつけ,思考の本性を要約している.
      2. 思考が対象の効果なら,ἀλλοφρονεῖν は必然的に φρονεῖν である; ἀλλο- は心神喪失ではなく思考を構成する変化を指す.

  1. τὸ δ᾽ αὐτὸ τοῖς μὲν γλυκὺ γευομένοις δοκεῖ εἶναι を τὸ δ᾽ αὐτὸ τοῖς μὲν γευομένοις γλυκὺ δοκεῖ εἶναι のように取った (読みは EJ に従う.Cassin もこれを採る.Hecquet-Devienne は δοκεῖν).1009b38f. も同様にやや奇妙な語順.

  2. この段落の理路があまり理解できていない.読みの選択を含め再度要検討.

  3. やや違和感は残るが,一応これに従う (δοκεῖν を採ると特に φαίνεσθαι, δοκεῖν の処理が難解になる).