『メタフュシカ』Γ4 #2 同名同義性・同名異義性による詭弁の論駁

Met. Γ4 1006a28-b34.


[1006a28] さて第一に,少なくとも以下が真であることは明らかである.すなわち,名前は〈これであること〉または〈これでありはしないこと〉を意味表示しており,したがって,あらゆるものは,「そのようであり,かつそのようでありはしない」ことができない.

πρῶτον μὲν οὖν δῆλον ὡς τοῦτό γ᾽ αὐτὸ ἀληθές, ὅτι σημαίνει τὸ [30] ὄνομα τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τοδί, ὥστ᾽ οὐκ ἂν πᾶν οὕτως καὶ οὐχ οὕτως ἔχοι.

[1006a31] さらに,人間が一つのものを意味表示するとき,これを「二足の動物」としよう.私が「一つのものを意味表示する」と言うのは,次のことである――これが人間であり,何かが人間であるとすれば,それは人間にとっての〈あること〉である.

ἔτι εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει ἕν, ἔστω τοῦτο τὸ ζῷον δίπουν. λέγω δὲ τὸ ἓν σημαίνειν τοῦτο· εἰ τοῦτ᾽ ἔστιν ἄνθρωπος, ἂν ᾖ τι ἄνθρωπος, τοῦτ᾽ ἔσται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι·

[1006a34] 「多くのものを意味表示するのであり,ただ限定されているだけである.というのも,各々の説明規定について一つの名前を名づけうるから」とひとが主張するとしても,何ら違いはない.私が言うのは例えば,「「人間」が一つのものを意味表示すると主張せず,多くのものを意味表示し,そのうちの一つに「二足の動物」という単一の説明規定があり,他方で他の説明規定も数多くあるが,数としては限定されている」と主張するとしても,ということである.というのも,固有の名前を諸説明規定の各々に関して名付けうるから.固有の名前を名付けず,むしろ無限個のものを意味表示すると主張するとすれば,説明規定がありえないことは明らかである.というのも,一つでないものを意味表示するとは,何ら意味表示することではないから.名前が意味表示していないなら,互いと対話することは破棄され,真実に基づくなら自分自身に対して対話することも破棄される.というのも,一つのものを知性認識しないなら,何かを知性認識することがあってはならず,もし知性認識することがあってよいとすれば,この事象に一つの名前を名づけうる.

διαφέρει δ᾽ οὐθὲν οὐδ᾽ εἰ πλείω τις φαίη σημαίνειν, μόνον δὲ ὡρισμένα, τεθείη γὰρ ἂν ἐφ᾽ ἑκάστῳ λόγῳ ἕτερον ὄνομα· λέγω δ᾽ οἷον, εἰ μὴ φαίη τὸν ἄνθρωπον ἓν σημαίνειν, πολλὰ δέ, ὧν ἑνὸς μὲν εἷς λόγος τὸ ζῷον δίπουν, εἰσὶ δὲ καὶ ἕτεροι πλείους, ὡρισμένοι δὲ τὸν ἀριθμόν· [5] τεθείη γὰρ ἂν ἴδιον ὄνομα καθ᾽ ἕκαστον τῶν λόγων· εἰ δὲ μή τεθείη, ἀλλ᾽ ἄπειρα σημαίνειν φαίη, φανερὸν ὅτι οὐκ ἂν εἴη λόγος· τὸ γὰρ μὴ ἓν σημαίνειν οὐθὲν σημαίνειν ἐστίν, μὴ σημαινόντων δὲ τῶν ὀνομάτων ἀνῄρηται τὸ διαλέγεσθαι πρὸς ἀλλήλους, κατὰ δὲ τὴν ἀλήθειαν καὶ πρὸς αὑτόν· [10] οὐδὲν γὰρ ἐνδέχεται νοεῖν μηθὲν νοοῦντα ἕν, εἰ δ᾽ ἐνδέχεται, τεθείη ἂν ὄνομα τούτῳ τῷ πράγματι ἕν.

[1006b11] さて,ちょうど原理に関して語られたように,名前が何かを意味表示し,一つのものを意味表示するとしよう.事実,「人間にとっての〈あること〉」が,人間にとっての〈ありはしないこと〉そのものを意味表示するということがあってはならない――「人間」が一つのものについて意味表示するだけでなく,一つのものを意味表示してもいるのだとすれば.というのも,一つのものについて意味表示することが,一つのものを意味表示することであることが相応しいとは,我々は考えないから.なぜなら,まさにそうした仕方で「教養あるもの」と「白いもの」と「人間」が一つのものを意味表示しているなら,その結果,全てが一つのものを意味表示することになるだろうから.というのも,それらは同名同義的だから.また〈あること〉と〈ありはしないこと〉は,同名異義性に基づいてでなければ,同一でないだろう.ちょうど,我々が人間と呼ぶものを,他の人々が人間と呼ばないだろうとすれば,そうであるように.だが,名前の点で人間であることと人間でありはしないことが同時にあってよいかどうかは,アポリアーとされていたことではない.むしろ,事柄の点でそうしたことがあってよいかどうかが,アポリアーとされていたことである.「人間」と「人間でない」が異なるものを意味表示しないなら,「人間にとっての〈ありはしないこと〉」も「人間にとっての〈あること〉」と異なるものを意味表示しないのであり,したがって,人間にとっての〈あること〉は人間にとっての〈ありはしないこと〉であるだろう.というのも,一つであるだろうから.というのも,この〈あること〉は,説明規定が単一であるなら,ローブと外衣のように,一つのものを意味表示するから.一つであるだろうとすれば,人間にとっての〈あること〉と人間にとっての〈ありはしないこと〉は一つのものを意味表示する.だが異なるものを意味表示するということは示されていた.

ἔστω δή, ὥσπερ ἐλέχθη κατ᾽ ἀρχάς, σημαῖνόν τι τὸ ὄνομα καὶ σημαῖνον ἕν· οὐ δὴ ἐνδέχεται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι σημαίνειν ὅπερ μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ, εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει μὴ μόνον καθ᾽ ἑνὸς [15] ἀλλὰ καὶ ἕν· οὐ γὰρ τοῦτο ἀξιοῦμεν τὸ ἓν σημαίνειν, τὸ καθ᾽ ἑνός, ἐπεὶ οὕτω γε κἂν τὸ μουσικὸν καὶ τὸ λευκὸν καὶ τὸ ἄνθρωπος ἓν ἐσήμαινεν, ὥστε ἓν ἅπαντα ἔσται· συνώνυμα γάρ. καὶ οὐκ ἔσται εἶναι καὶ μὴ εἶναι τὸ αὐτὸ ἀλλ᾽ ἢ καθ᾽ ὁμωνυμίαν, ὥσπερ ἂν εἰ ὃν ἡμεῖς ἄνθρωπον [20] καλοῦμεν, ἄλλοι μὴ ἄνθρωπον καλοῖεν· τὸ δ᾽ ἀπορούμενον οὐ τοῦτό ἐστιν, εἰ ἐνδέχεται ἅμα τὸ αὐτὸ εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἄνθρωπον τὸ ὄνομα, ἀλλὰ τὸ πρᾶγμα. εἰ δὲ μὴ σημαίνει ἕτερον τὸ ἄνθρωπος καὶ τὸ μὴ ἄνθρωπος, δῆλον ὅτι καὶ τὸ μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ τοῦ εἶναι ἀνθρώπῳ, ὥστ᾽ ἔσται τὸ ἀνθρώπῳ [25] εἶναι μὴ ἀνθρώπῳ εἶναι· ἓν γὰρ ἔσται. τοῦτο γὰρ σημαίνει τὸ εἶναι ἕν, τὸ ὡς λώπιον καὶ ἱμάτιον, εἰ ὁ λόγος εἷς. εἰ δὲ ἔσται ἕν, ἓν σημανεῖ τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι καὶ μὴ ἀνθρώπῳ. ἀλλ᾽ ἐδέδεικτο ὅτι ἕτερον σημαίνει.

[1006b30] したがって,「人間である」ということが何か真なることであるとすれば,二足の動物であることは必然である (というのも,「人間」がこれを意味表示していたものだったから).このことが必然であれば,そのとき同一のものが二足の動物でないことがあってはならない (というのも,「必然的にある」は,「人間でありはしないことが不可能である」を意味表示するから).したがって,「同一のものが人間であり,かつ人間でありはしない」と言うことが,同時に真であることがあってはならない.

ἀνάγκη τοίνυν, εἴ τί ἐστιν ἀληθὲς εἰπεῖν ὅτι ἄνθρωπος, ζῷον εἶναι δίπουν [30] (τοῦτο γὰρ ἦν ὃ ἐσήμαινε τὸ ἄνθρωπος)· εἰ δ᾽ ἀνάγκη τοῦτο, οὐκ ἐνδέχεται μὴ εἶναι τότε τὸ αὐτὸ ζῷον δίπουν (τοῦτο γὰρ σημαίνει τὸ ἀνάγκη εἶναι, τὸ ἀδύνατον εἶναι μὴ εἶναι ἄνθρωπον)· οὐκ ἄρα ἐνδέχεται ἅμα ἀληθὲς εἶναι εἰπεῖν τὸ αὐτὸ ἄνθρωπον εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἄνθρωπον.

要約

  • 名前は〈x であること〉か〈x でありはしないこと〉のいずれか一方 (のみ) を意味表示する.
  • 例: 「人間」は一つのもの (二足の動物) を意味表示する.
    • i.e. 「二足の動物」が人間であり, x が人間なら,当の [x] にとっての〈あること〉は「二足の動物」である.
    • 任意の名前  \lceil a \rceil がただ一つのもの  a を意味表示するとする.
      • このとき,「人間にとっての〈あること〉」は人間にとっての〈ありはしないこと〉を意味表示しない.
        • ∵ 「人間」は (a) 一つのもの  x について (i.e. 単一の  x の何らかの属性  P を) 意味表示するのみならず,(b) 一つのこと (i.e. ただ一つの  P を) 意味表示する.
          • (a) を (b) と混同すると,(本来異なる) 諸述語 (e.g. 「教養あるもの」「白いもの」「人間」) が同名同義的となり,一つのもの意味表示することが帰結する.
      • また〈 a であること〉と〈 a でありはしないこと〉は,同名異義性にもとづいて (e.g.  x を A さんは「人間」と呼び,B さんは「非人間」と呼ぶとき) しか同一ではない.
        • かりに「人間」と「人間でない」が異なるものを意味表示しないなら,人間にとっての〈あること〉= 人間にとっての〈ありはしないこと〉.だが,実際はそうではない.
    • したがって: 人間(x) ならば必然的に 二足の動物(x) であり (∵ 「人間」は二足の動物を意味表示する),ゆえに ¬二足の動物でない(x).
      • ゆえに「人間(x) かつ 人間でない(x)」はありえない.

先行研究

CN:

  • 1006a29f. 多数派解釈は Alex. に依拠して τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι を τὸ ὄνομα と同格で σημαίνει の主語,τοδί (quelque chose de déterminé) を目的語に取る.この解釈の難点は,(1) τοδί が σημαίνει の直後に来ていないこと,(2) 論点先取を犯していること (Alex. は恣意的に εἶναι の多義性を解消する).
    • むしろ τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τοδί を一まとまりと捉えるべき.議論の流れは次の通り: 「論駁的論証」が論点先取を免れる方法を示した後 (1006a11-26),(I) 第一に語の意味が反対論者の主張する矛盾に対する例外をなすことを示し (1006a28-31),(II) 次に「意味表示」の観念自体の分析から,無矛盾律が語・意味のみならず事象・本質に関しても妥当すると論じる (1006a31-1007b18).
    • (I) は ὄνομα が意味をもつという点を強調するに過ぎない.主題は専ら述定的な εἶναι であって存在的 εἶναι ではない.
      • 「〈これであること〉か〈これでありはしないこと〉」の「か」は離接的 (disjonctif).
  • 1006a32-34.
    1. 解釈者は εἰ τοῦτ᾽ ἔστιν ἄνθρωπος が τὸ ζῷον δίπουν を指す点で一致し,述語か主語かという点で分かれる.
      • CN は τοῦτ᾽ が主語だと理解する.その方が定冠詞の不在を説明できる.最初は「人間」がシニフィアン,「二足の動物」がシニフィエであったが,ここで「二足の動物は人間である」は同一性言明.「人間」をシニフィアンシニフィエに分解している1
    2. ἂν ᾖ τι ἄνθρωπος の解釈も二通りある:
      • (a) 一般性と反復性の強調:「誰かが人間であるたびに」(Alex.).意味の単一性 = 全事例における何性の恒常性.
      • (b) 指示対象である人間が存在するという条件の指定.その場合にのみシニフィアンシニフィエ関係が本質を示す.
        • このうち (b) の方が帰結が大きく,それゆえ解釈者が避けがち.ただしもちろん (a) は (b) を排除しない.(a) は τοῦτ᾽ を述語と取る解釈と相性がよい.
        • 「本質」「何性」などの術語で特徴付けるのは本当はよくない.あくまで意味表示から「ある」が明らかにされている.
  • 1006b2-4. 'εἰ μὴ φαίη τὸ ἄνθρωπος ἓν σημαίνειν, πολλὰ δέ, ὧν ἑνὸς μὲν εἷς λόγος τὸ ζῷον δίπουν, εἰσὶ δὲ καὶ ἕτεροι πλείους, ὡρισμένοι δὲ τὸν ἀριθμόν·'
    • τὸ ἄνθρωπος Ab; τὸν ἄνθρωπον EJ. Ab はストレートに読めるが EJ は難しい; EJ の解釈には三通りの仮説が考えられる.
      1. 「発話主体である限りで意味表示する」.––だが πολλὰ δέ 以降が問題を構成しない.
      2. τὸν ἄνθρωπον は人という事物を指す.––だが多義性が問題になっている.
      3. 男性と中性に差はない.––中性冠詞を引用符代わりにする語法はこの当たりで系統的に用いられている.この語法はプラトンのみならずクセノフォンやデモステネスにも見られる.もっとも必須ではない (cf. Pl. Crat., Arist. De Int.).Abアリストテレスの思考の足取りを明確にしているにすぎない2
    • ὧν ἑνὸς μὲν εἷς λόγος EJ; ὧν εἷς μὲν εἴη Ab. 後者の場合 πολλὰ は「複数の個物」としか読めず,一般性と多義性を混同していることになるが (cf. SE 1, 165a12-13 の Hintikka 解釈),これは以降の議論と整合しない.ここはむしろ語の多義性を認めても「一つのことを意味表示する」ことと矛盾しないという反論になっている.したがって l.4 も εἰσὶ でなければならない.
  • 1006b5-11 Gomperz, Christ, Ross は "εἰ δὲ μή τεθείη" 以下を直前との対比と考えると矛盾すると考えて τεθείη を削除し,διαφέρει δ᾽ οὐθὲν 以下との対比で理解するが,これは問答法的文脈への認識が不足した提案である; 語の多義性の仮説はアリストテレスの容れるところではない.

  • 1006b11-34 アリストテレスは以下を示す.(1) 多義性が矛盾する事物についての思考を強いる: あらゆる語の同名同義性と一つの語の同名異義性.これらは言語的なものの資格において存在論的帰結をもつ.(2) 反対に,矛盾する事物を措定すると,全ての語が同じ意味を持つことになる.ここでアリストテレスは超越論的論駁にとって構成的である「意味表示」の概念にのみ訴えている.

    • 同名同義性と多名性. Alex. 以来,ここで用いられているのは同名同義性ではなく多名性 (polyonymie) だという批判がある.だが,これは当たらない.
      1. 「〈同名同義的なもの〉は同じ名辞と同じ定義をもつもので,〈同名異義的なもの〉は同じ名辞と異なる定義をもつもの」ではない.Cat. 冒頭の 'ὄνομα' は 'a name in common' (Ackrill) と理解されねばならない; 一つの名辞に同名異義的用法と同名同義的用法がある.
      2. 今回の箇所の場合も次のように理解されるべきである: 一つの共通の名辞  \lceil a\rceil があり,それが指すもの  a にあらゆる述語付け  P_1, P_2, ... が可能であって, P_1(a), P_2(a), ... において  \lceil a\rceil は同じ説明規定をもつ.
        • 通常同名同義的であるのは述語だが,ここでは主語.こうした混同が同名同義性のソフィスト的使用の中心にある.
      3. そもそも πολυώνυμος はアリストテレスの術語とは言えない (HA に一度だけ異なる文脈で出てくる).
      4. もっとも,最後に同名異義性によって解消しない矛盾を解消するため同名同義性に回帰するが (「ローブ」/「外衣」),この箇所に限っては「多名性の代わりに誤って同名同義性が用いられている」という Ross の指摘も一理ある.
    • 「〜にとってのあること」表現における冠詞と否定の役割
      1. 冠詞は (i) 実詞化 (〜ということ) と (ii) 引用符の二つの役割がある (また一つで両者を兼ねうる).ここでは実詞化で理解する (引用符だと理解するのは論理的でない).
      2. μὴ ἀνθρώπῳ εἶναι と μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ は論理的に異なるか.Ross, Kirwan は同じだと理解する.Kirwan によれば,厳密には前者は反対 (contraire),後者は矛盾対立 (contradictoire) だが,一方に関する無矛盾律を認めれば他方に関しても認めるのがごく自然なので,それほど問題はないという.しかしながら,アリストテレスは反対と矛盾対立をきちんと区別している (APr. I.46, 51b7-10).
        • だが,「非 A にとってのあること」は「A にとってのあること」の反対ではない.これらは A / 非 A の定義であり,両者の関係は A / 非 A の関係と同じ.したがって「非 A にとってのあること (être pour un non-homme)」は「A にとってのあることでないこと〔ありはしないこと〕(ne pas être pour un homme)」と等価である.〔ゆえに結論としては,μὴ ἀνθρώπῳ εἶναι と μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ は論理的に同じ.〕

  1. あまりよく分からない.

  2. 意味が変わらないなら EJ で読めばいいように思うので,この選択は謎.確定的なことを言うには語法の精査が中性冠詞と σημαίνειν の両方について必要だが,それほどきちんと書き分けている保証はないと思う.本文は EJ を採った.