『ソフィスト』236d9-237b6 〈あらぬ〉のパズル

Sph. 236d9-237b6. 所謂中央部.


[236d5] 客人 まことに,幸せな君,我々は全く困難な考察のうちにいるのだ.というのも,「このように現れており,思われているが,そうありはしない」ということ,また「何かを語るが,真理を語ってはいない」こと,これら全てはつねに,過去においても現在も,困難に満ちているからだ.それというのも,どのように言うことで,虚偽がほんとうにあると語り,あるいは判断するべきなのか,またこれを発話しながら矛盾を被らずにいるべきか,ということは,テアイテトスよ,全くもって難題なのだから.

テアイテトス 一体なぜですか?

客人 この議論は大胆にも,ありはしないものがあることを前提しているのだ.というのも,虚偽があるものになることは,これとは別の仕方ではありえないから.偉大なるパルメニデスは,君,我々が子供だったとき,最初から最後まで,このことを証言しとおしたのだ.散文でも韻文でも,折々次のように語りながら−−

これが敗北し,そうして〈あらぬ〉がある,ということは決してないから.

むしろ君は,探求しつつ,この道から思考を締め出しなさい.

そこで,かの人からも証言されており,かつ就中,万物についての言論そのものが,充分に吟味されれば,明らかにするだろう.そこで,まずこのこと自体に我々は注目しよう,君になにか異論がなければだが.

テアイテトス 私のことはお望み通りになさってください.議論については,これを詳論する最善の仕方を考察しながら自ら進みゆき,また私をその道に沿って導いてください.

Ξένος ὄντως, ὦ μακάριε, ἐσμὲν ἐν παντάπασι χαλεπῇ [236ε] σκέψει. τὸ γὰρ φαίνεσθαι τοῦτο καὶ τὸ δοκεῖν, εἶναι δὲ μή, καὶ τὸ λέγειν μὲν ἄττα, ἀληθῆ δὲ μή, πάντα ταῦτά ἐστι μεστὰ ἀπορίας ἀεὶ ἐν τῷ πρόσθεν χρόνῳ καὶ νῦν. ὅπως γὰρ εἰπόντα χρὴ ψευδῆ λέγειν ἢ δοξάζειν ὄντως εἶναι, καὶ τοῦτο φθεγξάμενον ἐναντιολογίᾳ μὴ συνέχεσθαι, παντάπασιν, ὦ [237a] Θεαίτητε, χαλεπόν.

Θεαίτητος τί δή;

Ξένος τετόλμηκεν ὁ λόγος οὗτος ὑποθέσθαι τὸ μὴ ὂν εἶναι: ψεῦδος γὰρ οὐκ ἂν ἄλλως ἐγίγνετο ὄν. Παρμενίδης δὲ ὁ μέγας, ὦ παῖ, παισὶν ἡμῖν οὖσιν ἀρχόμενός τε καὶ διὰ τέλους τοῦτο ἀπεμαρτύρατο, πεζῇ τε ὧδε ἑκάστοτε λέγων καὶ μετὰ μέτρων -- οὐ γὰρ μήποτε τοῦτο δαμῇ, φησίν, εἶναι μὴ ἐόντα: ἀλλὰ σὺ τῆσδ᾽ ἀφ᾽ ὁδοῦ διζήμενος εἶργε νόημα. [237b] παρ᾽ ἐκείνου τε οὖν μαρτυρεῖται, καὶ μάλιστά γε δὴ πάντων ὁ λόγος αὐτὸς ἂν δηλώσειε μέτρια βασανισθείς. τοῦτο οὖν αὐτὸ πρῶτον θεασώμεθα, εἰ μή τί σοι διαφέρει.

Θεαίτητος τὸ μὲν ἐμὸν ὅπῃ βούλει τίθεσο, τὸν δὲ λόγον ᾗ βέλτιστα διέξεισι σκοπῶν αὐτός τε ἴθι κἀμὲ κατὰ ταύτην τὴν ὁδὸν ἄγε.

要約

  • エレアからの客人は,(i)「P と現れている / 思われているが,P でありはしない」,(ii)「x を語るが,真理を語りはしない」ということが問題含みであると指摘する.
    • なぜなら,パルメニデスが常々語ったように,「〈あらぬ〉がある」ことはないからである.

訳注

  • 'δαμῇ': LSJ 'δαμάζω' はパルメニデスの用例を独立に立項する.他方 Coxon, ad loc. によれば "In Plato's citations it is natural, though not necessary, to refer it to the following accusative and infinitive. Then δαμῇ must mean 'be proved', an unparalleled sense ... P[armenides] nowhere else however uses τοῦτο simply to point forward ... It is better therefore to give δαμῇ its regular sense of 'be defeated' ...".
    • パルメニデスが δαμῇ を特異な意味で使っていないとすれば,プラトンが引用に際して特異な意味を与えているとも考えにくい.
    • ここでは仮に Coxon の読みに従い,続く不定詞 εἶναι を consecutive に取る.Cf. Smyth §2011: 'This redundant use of εἶναι is common in Hom. and Hdt.'.

メモ

Crivelli はここで提起される問題についての解釈を以下のように整理する.

  • 存在論的解釈: 虚偽があるなら,あらぬものがある.すると矛盾.したがって,虚偽はあらぬ.(Cornford, Ross, Bluck, Bondeson, Guthrie, Szaif.)
  • 意味論的−認識論的 (semantical-gnoseological) 解釈: 虚偽は「あらぬものを言ったり思考する」ことを伴う.だが,あらぬものを言ったり思考することは不可能である.したがって,ひとは虚偽と何ら関係しえない.−−これには以下の諸形態がある.
    • 定義不可能性解釈: 虚偽を定義するにはあらぬものについて語らねばならない.しかるに云々.
    • 非存在解釈: 虚偽の存在を否定する.
      • 命題的解釈: あらゆる文は何らかの命題を表現する.しかるに偽なる文はあらぬものを表現する.したがって,虚偽の文は命題を表現しない.したがって,いかなる文も偽ではない.−−このパラドクスは「ある」の veridical / existential 両義を用いる.Frege が似たパズルを提起するが,そちらは曖昧性を利用していない.
      • 真理条件を意味条件に帰着させる解釈: ある文が有意味なら,対応する現実の部分がある.対応する現実の部分は文を真にする.(Kostman.)
        • 現実の部分とは事実である.(Hackforth, Gulley, Tilghman, von Weizsäcker, Przełęcki)
        • 現実の部分とはトロープである.(Owen.)
        • 現実の部分とは「述定的な複合者」(i.e. 指示対象とそれに帰属する種) である.