『魂について』I.1 #3 魂の受動状態は身体から離在しない

DA I.1 403a3-403b18. 今回はじめて Budé 版 (Jannone 1966) を見てみたが,校注が良くない1.引き続き Hicks で読むことにする.


[403a3] 魂の諸属性もアポリアを有している.あらゆる属性が〔魂を〕もつものとも共通しているのか,それとも或る属性があって,魂そのものに固有であるのか.というのも,このことは把握しなければならないが,簡単ではないのだから.ほとんどの属性は,身体なしには作用を被ることも作用することもできないように思われている.例えば,怒ることや,勇気を出すことや,欲望することや,一般に,感覚することのように.だが知性認識することはこの上なく固有であるように見える.だが,知性認識することも何らかの表象であるか,あるいは表象なしにはありえないものだとすれば,知性認識することが身体なしにあるということも,あってはならないだろう.

[403a10] さて,もし魂の諸活動ないしは受動作用のうち何かが固有であるなら,魂は離在してよいだろう.だが何ものも魂に固有でないなら,離在していることはできず,むしろ,あたかも〈直〉である限りの〈直〉に多くの事柄 (例えば青銅の球と一点で接すること) が付帯するが,しかし少なくとも,〈直〉がそのように離在しつつ接するわけではないのと同様である.というのも,つねに何らかの身体を伴っている限りで,離在していないから.魂のあらゆる受動状態−−怒り,温和さ,哀れみ,勇気,さらには喜び,愛すること,憎むこと−−も,身体を伴っているように見える.というのも,これらと同時に,身体も何かを被るからだ.その証拠として,或るときには,激しく,はっきりした受動作用が起きているのに,苛立ったり恐れたりすることがない一方で,身体が興奮しており,苛立っているときのようである場合には,時おり,微小で不確かな受動作用によって動かされるということがある.さらに,このことはいっそう明らかである.というのも,いかなる恐ろしいことも起きていないのに,人々は恐れている人の受動状態になるからだ.そうだとすれば,諸受動状態が質料内在的な説明規定であることは明らかである.したがって,〔諸受動状態の〕定義は,「怒ることとは,これこれこのような身体の,あるいは〔身体の〕部分ないしは能力の,これこれによる,これこれのための,或る運動である」というようなものになるだろう.そして以上のことから,魂について−−全体をであれこのようなものをであれ−−考察することは,もはや自然学者に属する.

[403a29] 自然学者と弁証家は,これらの各々を−−例えば怒りとは何であるかを−−異なる仕方で定義するだろう.というのも,弁証家は「お返しに苦痛を与えることへの欲求」とか,そうした何かであると定義し,一方の自然学者は「心臓のまわりの血液,ないしは熱いものの沸騰」と定義するだろうから.両者の一方は質料を提示しており,他方は形相すなわち説明規定を提示している.というのも,説明規定は事柄のそれである一方,この説明規定は,それがあるだろうとすれば,これこれこのような質料のうちにあるということは必然であるから.ちょうど家の一方の説明規定が,「風や嵐や太陽の熱による破壊を防ぐ覆いである」といったものであり,他方の自然的な説明規定は「石と煉瓦と木材」であるように.だが別の説明規定はこれら〔の質料〕のうちにある何かのための形相である.さて,これらの人々の誰が自然学的だろうか.質料に関わる人で,説明規定については無知である人か,それとも説明規定のみに関わる人か.それともむしろ,両者からなる人か.では,前二者の各々は何であるのか.あるいは,質料の,離在しておらず,離在している限りのものでもないような諸属性に関わる人が誰かいるわけではなく,むしろ,しかじかのような身体,すなわちしかじかのような質料の活動と受動状態である限りのもの全てに関わる自然学者がいるのではないか.そうしたものとしてあるのでない限りのものについては,他の人がおり,或る事柄については,もし偶々いる場合には,技術者,例えば大工や医者がおり,一方で離在しないが,他方でしかじかの物体の諸属性ではなく抽象からなる限りの事柄には,数学者がおり,離在する限りの事柄には,第一哲学者がいる.だが,議論の出発点に戻らなければならない.魂の諸属性は,そうしたもの−−すなわち怒りや恐れ−−である限りで,諸々の動物の自然的な質料から離在不可能であり,線や平面と同様ではない,と我々は述べた.

要約

  • [403a3] アポリア: (T) 魂の属性すなわち受動状態は,全てが魂をもつ身体と共通のものか,(AT) 或る属性は魂に固有なのか.
    • (T): 怒る,勇気を出す,欲望する,感覚する,といったほとんどの属性は,身体なしにはありえない.
    • (AT): 知性認識は魂に固有に見える.
      • (AT) へのあり得る反論: 知性認識が表象であるか,表象に依存するなら,身体を必要とするだろう.
  • [403a10] (AT) ⇒ 魂は離在してよい,(T) ⇒ 魂は離在できない (数学的対象と同じく).
  • (T) を支持する根拠: 魂のあらゆる受動状態は身体を伴うように見える.
    • ∵ 受動作用が魂に及ぼす影響は,身体の状態に左右される.(受動作用がない場合さえある.)
  • (T) が真なら〔魂は離在しないので〕魂の受動状態は質料内在的な説明規定になる.
    • ⇒ 受動状態の定義は「身体の ... 運動」という形式を取ることになる.
      • ⇒ 魂は自然学的考察の対象となる.
  • [403a29] 脱線: 魂の受動状態の定義は,言及するものに応じて三通りありうる: (1) 形相のみ,(2) 質料のみ,(3) 形相と質料.
    • (1) は弁証家,(2) は自然学者の定義.だが〔真に〕自然学的なのは (3).

訳注

  • πάθημα: 受動作用 (↔ ἔργον: 活動),πάθος: 属性,受動状態.
    • πάθος はけっこう困る.「属性=受動状態」とか書きたいくらい.
  • 中畑 (新全集) 21n31:「〔403b2ff. は〕テキストに若干の問題がある.403b2 は,底本〔Budé 版〕の (二つ目の) εἶδος にかわって ὅδε を読んだが,前後のいくつかの文と同様に有力写本や古注に従って ὁ μὲν と対比される ὁ δὲ で読むなら,「一方の問答家の定義はたんに説明規定であるが,他方の自然学者の定義は事物の説明規定であり,……」と訳しうる」(i.e. "ὁ μὲν γὰρ λόγος, ὁ δὲ τοῦ πράγματος").文脈から期待される対比ではあるが読みにくい.ここでは中畑訳の本文に従い ὅδε で読む (Hicks, Jannone の εἶδος は改訂的すぎる).

メモ

  • 脱線部の後半 (403a9ff.) の内容を理解できていない.論題はおそらく Phys. II.1, Met. E1 とも関連する.

  1. 少なくとも今回の箇所は異読に抜けがあり,読みの分かれる後述の箇所も極めて misleading な表記になっている.