『メタフュシカ』Θ6 運動と現実態

Met. Θ6 1048b18-35.

EJΓ が丸々 omit していて,Burnyeat (2008) が interpolation を想定した箇所.去年もここに関する長大な論考が OSAP に出ている (たぶん Burnyeat 批判).どちらも未読.ただ確かに文体のモードが違う感じはする.出てくる単語を除けば『カテゴリー論』っぽい.


[1048b18] 限界のある諸行為のどれも終極ではなく,むしろ終極についての諸行為に限界があるのであり (例えば痩せることの終極が痩せであるように),それらは痩せるときそのように運動のうちにあるのであって,運動の〈それらのゆえに〉が成り立っているわけではないのだから,これらは行為ではない,あるいは少なくとも完全な行為ではない (というのも,終極がないから).しかし,終極がそのうちに属するところのかのものも行為である.例えば,見ると同時に見てしまっており,思慮すると同時に思慮してしまっており,知性認識すると同時に知性認識してしまっているように.だが学ぶと同時に学んでしまっていることはなく,健康になりゆくと同時に健康になってしまうわけでもない.良く生きることと良く生きてしまっていることは同時であり,幸福であることと幸福になってしまっていることも同時である.さもなければ,痩せるときと同様,いつか終止しなければならないだろうから.ここではそうではなく,生きており,かつ生きてしまっているのである.実際,これらの一方を運動と言い,他方を現実態と言わねばならない.というのも,すべての運動−−痩せ,学習,歩行,建設−−は未完了であるから.これらは運動であり,まさに未完了である.というのも,歩くと同時に歩いてしまっているわけではないし,建設していると同時に建設してしまっているわけでも,生成していると同時に生成してしまっているわけでも,運動すると同時に運動してしまっているわけでもないから.むしろ異なっているのであり,「運動する」のと「運動してしまっている」のも異なっている.同一のものを見てしまっているのと同時に見ており,知性認識すると同時に知性認識してしまっている.そこで,一方でこうしたものを私は現実態と呼び,あちらのものを運動と呼ぶ.さて,運動にとっての〈何であるか〉と〈どのようであるか〉は,以上のこと,および以上のようなことから,我々にとって明らかであるとしよう.

要約

  • (E) 限界のある行為 = 未成立の終極についての行為 (e.g. 痩せる) ↔ (K) 終極が内属する行為 (見る,思慮する,知性認識する,よく生きる,幸福である).
  • (E) と (K) は,その動詞の現在形と完了形が同時に適用できるか否かによって判別できる.
  • (E) を現実態,(K) を運動と呼ぶ.

訳注

テクストが壊れていて読み方が分からない部分が多々ある.

  • b19 は写本通りに読む.
  • b21 は ὑπαρχόντων で読む.

内容注

  • Makin は言語的テストに対する内容上の疑義を述べた上で (§6) Burnyeat 論文 (当時 forthcoming) に触れてテクストの位置づけを議論している (§7).