『自然学』III.3 #1 作用/受動作用に関する論理的アポリア

Phys. III.3 202a13-b5.


[202a13] アポリアーとされている事柄も明らかである.すなわち,運動が運動しうるもののうちにあることも.というのも,この運動しうるものの完成態が運動させうるものによってあるのであり,また運動させうるものの現実態は別様にはないから.というのも,〔運動しうるものの現実態は〕両者の完成態でなければならないから.というのも,可能であるという点で運動させうるものであり,現実活動しているという点で運動させるものであるが,しかし現実活動しうるものは運動しうるものに属するのであり,したがって,1 の 2 に対する音程と 2 の 1 に対する音程が同一であり,上り坂と下り坂が同一であるのと同様に,両者の現実態は一つである.というのも,これらは一つであるが,しかしながら説明規定は一つではない.運動させるものと運動するものについてもそれと同様である.

[202a21] 論理的なアポリアーがある.というのもおそらく,作用するものと作用を被りうるものの何らかの現実態があることは必然だから.実際,一方は作用であり,他方は受動作用であり,一方の終極は作用の産物であり,他方の終極は受動様態である.したがって,両方の運動は,一方で,異なるのなら,何のうちにあるのだろうか? というのも,両者とも作用を受けるもの,すなわち運動するもののうちにあるか,あるいは,作用が作用するもののうちにあり,受動作用が受動するもののうちにあるかなのだ (これもまた作用と呼ぶべきだとすれば,両者は同名異義的であろう).

[202a28] しかし実際,後者であれば,運動は運動させるもののうちにあるだろうし (というのも,運動させるものと運動するものとについて同一の説明規定があるから),したがって全ての運動させるものが運動するか,あるいは運動をもつものが運動しないかだろう.

[202a31] だが,両者とも––作用も受動作用も––運動するもの,すなわち受動するもののうちにあり,教授も学習も,二つでありながら学習者のうちにあれば,第一に各々の現実態は各々のうちに帰属しないだろうし,次に二つの運動が同時に運動するということは奇妙である.というのも,いかなる二つの性質変化が一つのものの性質変化であり,一つの種に属するだろうか? いや,それは不可能である.

[202a36] だが,現実態は一つであるだろう.しかし,二つの種において異なるものに一個同一の現実態があるということは不合理である.また,教授と学習,作用と受動作用が同一であり,また教授することと学ぶこと,作用することと作用を受けることが同一である限りで,〔現実態は一つで〕あるだろうし,したがって,全ての教授する者は学んでおり,作用するものは作用を受けていることが必然であるだろう.

要約

  • 運動は運動しうるもののうちにある.
    • ∵ 運動させうるものの現実態 = 運動しうるものの現実態.
  • だが,ここで論理的なアポリアーが生じる:
    • 作用 ≠ 受動作用なら,両者は (T) ともに運動するもののうちにあるか,(AT) 運動するものとさせるものの各々のうちにあることになる.
    • だが,どちらもうまくいかない.
      • (AT) なら,運動は運動させるもののうちにあることになる.すると,(i) 運動させるものが全て運動するものでもあるか,(ii) 運動を有しつつ運動しない場合があることになる.〔どちらも不合理.〕
      • (T) なら,作用を被るもののうちに作用と受動作用の両方があることになる.〔これも不合理.〕
    • 作用 = 受動作用なら,(iii) 二つの種的に異なるものに同一の現実態があることになり,不合理.また (iv) これは例えば〈教授 = 学習〉のような主張をしているに等しい.

訳注

訳し分けが大変.

  • κινητικός-κινοῦν, κινητός-κινούμενον をここまで無差別に訳していたが,ここでの記述に鑑みれば (可能態)-(現実態) の含意のある訳語にすべきだろう.
  • ποίησις / πάθησις :「作用 / 受動作用」,ποίημα / πάθος :「作用の産物 / 受動状態」.(Hussey 曰く 'ad hoc terminology'.)

先行研究

  • 「運動は運動しうるもののうちにある」: a local sense is intended (Hussey).

メモ

  • たぶん何かを勘違いしているのだと思うが,(T) 側の論駁がよく分からない.もともと「作用は作用者,受動作用は受動するもののうちにある」という話だったはずが (a26-27),論駁はどちらの運動も両方の側にあるという話になっている (a31).Hussey は次のように補う: 'But where is the other change [= ποίησις] going on? Not in the agent, since we know that the agent is not necessarily changed in the course of acting.' だが,このような補いが可能なら,そもそも前提が成立していないと言うほかない.