『自然学』III.2 運動の定義の吟味.追加の特徴づけ

Phys. III.2.

[201b16] 〔以上のことが〕立派に語られたということは,他の人々が運動について語っていることどもからも明らかであり,また運動を別様に定義することは容易ではないということからも明らかである.それというのも,運動と変化を別の類のうちに措定することはできないだろうし,また,幾人かの人々がいかに運動を措定しているかを考察しても,〔そのことは〕明らかである.彼らは異なるものどもと不等なものどもと〈ありはしない〉ものが運動であると述べているのだが,それらのどれも,必然的に運動するわけではないのだ––異なるのであれ,不等なものであれ,〈ありはしない〉のであれ.むしろ,変化とは,対立するものどもからなる以上に,これらへの変化や,これらからの変化であるわけでもない.〔彼らが変化を〕これらのうちへと措定する原因は,「運動は何か無限定なものであり,第二の双欄表の諸原理は欠如的であるがゆえに無限定である」と思われていることである.というのも,これら諸原理のどれも〈これ〉でも〈こうしたもの〉でもなく,他のどのカテゴリーにも属さないのである.運動が無限定であると思われることの原因は,〈あるもの〉どもの可能態にも現実態にも運動を立てることができないということである.というのも,可能な量も現実態における量も必然的に運動するわけではなく,また運動は何らかの現実態ではあるが,不完全であると思われるから.可能なものが不完全であることは,現実態であるものの原因である.そしてそれゆえに,〈運動とは何であるか〉を把握することは難しいのである.というのも,欠如のうちへと措定するか,可能態のうちへと措定するか,端的な現実態のうちへと措定するか,であることが必然であるが,これらのどれもあってよいとは思われないから.したがって,既に述べられた方式が残されている––すなわち,一方で何らかの現実態であるが,我々が述べたたぐいの現実態であって,この現実態は理解することは難しいが,あってよいことではある.

[202a3] 上述の通り,運動させるもの全て––すなわち,可能的に運動するもの,つまりそれの非運動性が静止であるもの (というのも,運動が帰属するものの非運動性は静止であるから)––は運動させられもする.というのも,そうしたものとしてのこれらに対して現実活動することは,まさに運動させることであるから.これは接触によって起きるのであり,したがって同時に被りもするのである.それゆえ運動は運動させるものの運動させるものとしての現実活動態であって,これは運動するものの接触によって起きるのであり,したがって同時に被りもするのだ.運動させるものはつねに何らかの形相を運ぶだろう––〈これ〉であれ〈このようなもの〉であれ〈これだけの数のもの〉であれ.運動するとき,それは運動の原理であり原因であるだろう.例えば,現実態における人間は,可能的に人間であるものから人間を生じさせるのだ.

要約

  • 運動の定義は上述のものでよい: (1) エンドクサに比べてより優れている.(2) 別様には定義しにくい.
    • (2) 他の類 (可能態,端的な現実態) に措定することはできない.
    • 他の人々は,(i)「運動は異なるもの・不等なもの・ありはしないものだ」とする.
      • (1) だが,運動はこれらからの/これらへの運動ではない (むしろ対立するものから構成される).
      • 背後にある考え (ii):「運動は無限定であり,およそ原理の無限定性の原因は欠如的であることだ〔& 運動は原理である.したがって,運動は欠如的である〕」.
      • (ii) の補助的前提 (iii):「運動は〈あるもの〉どもの可能態でも現実態でもないのだから,運動は無限定だ」 (cf. 2).
      • (iii) の論拠:
        • (iv) 可能な〈あるもの〉も現実的な〈あるもの〉も必ずしも運動しない.
        • (v) 運動は何らかの現実態〔であって,可能態ではない〕が,不完全〔であるため,現実態ではない〕.
    • (2)〔(iii) は誤りであって〕我々の仕方で定義すべきである.
  • 自ら運動しうる運動させるもの X は,接触によって他のもの Y を運動させるのであり,〔接触は相互的作用なので〕同時に Y によって運動させられる.
  • 運動の原理は (諸カテゴリーのどれかに属する) 形相である.

訳注

  • b19-21 の構文が取りにくいが,δῆλον は直前の内容を受けており,σκοποῦσιν 以下は分詞構文,ὡς 以下は σκοποῦσιν の直接目的語となる間接疑問文だと思われる (Hussey, 内山もそう読んでいる).