『魂について』III.4 #1 知性と感覚の相違点

De An. III 4, 429a10-b9.

[429a10] 魂がそれによって認識し思慮するところの魂の部分については,それが離在するにせよ,大きさに即しては離在せず,むしろ説明規定に即して離在するにせよ,いかなる種差を有しており,また知性認識するということが一体どのように生じるのかを,考察しなければならない.実際,知性認識することがちょうど感覚することのようにあるなら,〔知性認識することとは,〕知性認識されうるものによって何かを被ることか,他の何かそうしたことであるだろう.したがって,非受動であり,形相を受容可能であり,可能的にそうしたものであるが,それであるわけではなく,感覚しうるものが感覚されうるものどもに対して類似するのと同様に,知性は知性認識されうるものどもに対して類似する,のでなければならない.

[429a21] したがって,全てのものを知性認識するのだから,アナクサゴラスが主張するように,支配するため,つまり認識するために,混ざっていないことが必然である.というのも,異質なものが一緒に現れると,妨害し,障害になるから.したがって,知性には,「可能である」というこの自然本性以外に,いかなる自然本性も属さない.したがって,魂に属するいわゆる知性は (私が「知性」と言うのは,それによって魂が思考し,判断するもののことだ),知性認識する前には現実態においては〈あるもの〉どものうち何ものでもない.それゆえに,知性は身体と混ざり合ってもいないということが,理にかなっている.というのも,何らかの性質のものに−−冷たくなるのであれ,熱くなるのであれ−−なるだろうし,また感覚しうるものにとってと同様に,何らかの器官もあるだろうから.しかし実際にはないのである.

[429a27] また「魂は形相の場所である」と語る人々は,実際うまく語っている.ただし,魂全体が,ではなく,知性的な魂が形相の場所なのであり,また現実的にではなく,可能的に諸形相があるのだ.

[429a29] 感覚しうるものと知性認識しうるものの非受動性が似ていないことは,諸感覚器官と感覚という点からしても明らかである.というのも,激しく感覚されるものによって,感覚は感覚できなくなる一方で−−例えば大きな音によって音を感覚できなくなるように,また強い色や匂いによって,見ることや嗅ぐことができなくなるように−−,しかし知性が何か激しく知性認識されうることを知性認識するとき,より弱い度合いのものどもを,より知性認識しないわけではなく,むしろいっそう知性認識するから.というのも,感覚しうるものは身体なしではない一方,知性は離在するから.現実態に即して学的に理解する人が語られる仕方で〔魂が〕各々のものになるとき (自分自身によって現実活動する能力があるとき,そうなるのだが),或る仕方では可能的である一方,それでも,学ぶ前,あるいは発見する前と同様ではない.またそのとき,知性は自らを思惟する能力がある.

要約

  • 以下の主題: 知性 =〈魂がそれによって認識・思慮 (思考・判断) する魂の部分〉.
    • 問題: (a) 他の部分との違い (種差),(b) 知性認識はどのように生じるのか.
  • 知性は (i) 非受動であり,(ii) 形相を受容可能であり,(iii) 可能的に形相のようなもの・類似するものだが,形相そのものではない.
  • 全てのものを知性認識する以上,知性は「可能である」以外の自然本性をもたない (混じり気がない).
    • したがって,身体とも混ざり合っていない.(∵ 身体と混ざっていれば,何らかの性質をもち,また (事実に反して) 器官ももつから.)
    • 知性的な 魂は,可能的にある 諸形相の場所である.
  • 感覚器官があるために,強い強度の感覚対象は弱い強度の感覚対象を感覚できなくする.−− 他方,知性は身体から離在するために,強い強度の知性認識されるものによって,むしろ弱い強度の知性認識もいっそう知性認識できるようになる.
  • 魂が現に知性認識するときは,それ以前と異なる状態にあり,また知性自らを知性認識しうる.