『メタフュシカ』Γ3 #1 公理の観照は哲学者の仕事である

Met. Γ3 1005a19-b11.

[1005a19] 数学的諸学におけるいわゆる諸公理について〔の探究〕と本質存在について〔の探究〕が一つの学知に属するのか,それとも異なる学知に属するのか,ということが語られなければならない.実際,これらについての探究が,一つの,また哲学者の〔学知〕に属することは明らかである.というのも,〔諸公理と本質存在は〕〈あるもの〉ども全てに帰属するのであって,他の諸類から切り離された或る固有の類に帰属するのではないから.そして全ての人々が用いている一方 (なぜなら〈あるもの〉としての〈あるもの〉に属するのであり,各々の類は〈あるもの〉であるから),彼らにとって十分である限りで用いているのである––すなわち,それについて諸々の論証がもたらされるところの類がおよぶ限りで,ということである.したがって,〈あるものども〉としての全てのものどもに〔諸公理が〕属するということは明らかであるから (というのも,これはそれら〔諸公理〕に共通であるから),〈あるもの〉としての〈あるもの〉について,またこれら〔諸公理〕について認識している人に〔諸公理の〕観照が属するのである.まさにそれゆえに,部分的に考究している人々は誰も,これらについて,真なるか否かということを何か言うということを試みていないのである––幾何学者であれ算術家であれ.しかし自然学者のうち若干の人々は〔これをなしている〕––彼らがこれをなすのは尤もなのだが.というのも,自然学者たちだけが自然全体について,すなわち〈あるもの〉について考えていたのだから.さらに,自然学者より上位にある人というのがおり (というのも,自然は〈あるもの〉の何らかの一つの類であるから),普遍的に〔観照する者〕と第一実体について観照する者に,これらについての考察は属するだろうから.自然学も何らかの知恵ではあるが,第一の〔学知〕ではないから.上述の人々のうち或る人々が,受け入れる必要がある仕方で真理について語ることを試みる限りのことどもについては,人々は分析論についての無教養ゆえにこれを行なっているのだ.というのも,これらについて予め理解して赴くことが必要なのであり,学びながら探究するべきではないのである.哲学者,すなわち全ての本質存在を本性上ある限りで観照する者に,推論的諸原理について考究することが属することは明らかである.各々の類についてこの上なく認識している者には,事柄の最も確実な諸原理を述べうることが相応しいのであり,したがって〈あるものども〉としての〈あるものども〉について〔この上なく認識している者には〕全ての事柄について最も確実な諸原理〔を述べうることが相応しいのである〕.

要約

  • 諸公理と本質存在は同一の学知の考察対象であり,その考察は哲学者の仕事である.
    • ∵ 諸公理は (特殊の類にではなく)〈あるもの〉ども全てに帰属する.
      • 〔個別学科を研究する〕人々はみな,〔基礎に置かれる〕類の範囲内で〔本来は共通である〕諸公理を用いているのだ.
    • (Ax-Obj) したがって,諸公理は〈あるもの〉としてある全てのものどもに属する.
    • (Ax-Phil) それゆえ,諸公理の観照は哲学者の仕事となる.
  • このことは,実際の研究状況を説明する.
    • 個別学科の一つである数学では公理の真偽は問われない.
    • 自然学者の一部は公理を考察している.
      • 自然学は自然全体 =〈あるもの〉を考察するのだから,それは尤もではある.
      • 〔しかし本当は〕自然は〈あるもの〉の一つの類にすぎない.
      • 真なる公理を受け入れるべきところでそれを論うのは,分析論を知らないからだ.
  • 〔(Ax-Obj) → (Ax-Phil) の補足:〕個別の類を扱う学者がその類に関連する最も確実な諸原理を語りうるべきであるように,哲学者は〈あるもの〉に関連する諸公理を語りうるべきである.

先行研究

CN, p.178ff. が未読 (仏語力なさすぎ).読みしだい追記する.

  • CN: "τοῦ καθόλου καὶ τοῦ περὶ τὴν πρώτην οὐσίαν θεωρητικοῦ καὶ ἡ περὶ τούτων ἂν εἴη σκέψις". この καὶ にアリストテレス解釈の根本問題のひとつが懸かっている: 存在論と神学の関係如何.
    • καὶ の多義性からして三通りの解釈がありうる.
      1. 存在論と神学を別個に捉える.
      2. 存在神論として哲学を統一的に捉える.
      3. はじめから存在論と神学を同一視する.
    • 多数派解釈は (3). ただし,どちらがどちらに帰着するのかは問題.
      • Jaeger は「神学から存在論へ」の発展史をもとに存在論優勢で理解し,テクストまで変えてしまった.
      • Tricot, Colle の場合は逆に神学が存在論を包摂する (不要な通時的議論はしない).
    • 背景にはカント主義 (Natorp, Jaeger; 神学の最小化) / トマス主義という理論的争点がある.
    • CN 自身はありうる両義性を保っておく.すなわち「第一の」本質存在には,(i) 他がそれに対して語られる第一のもの,(ii) 階層上の第一のもの,の二義がありえ,両者を混同するいかなる理由もない*1.したがって存在論/神学の区別は保持したほうがよい.もちろん哲学者は同時に神学者/存在論者である––ちょうど数学者が算術家であり幾何学者であるように.その上で,しないといけないわけではないが,(アリストテレス) 形而上学の存在神論的構造を参照することもできる (e.g. Heidegger).

メモ

  • APo. の幾つかの章を再確認する必要があるだろう.あとディアレクティケーとの関係.

*1:ごもっとも!