Met. Γ2 1004a31-b22.
[1004a31] それゆえ,『アポリアー集』において語られた通り,これらのものや本質存在について説明をもつことが一つの学知に属することは明らかであり (これは異論に含まれる論点の一つであった),全てについて観照しうることは哲学者に属するのだ.というのも,哲学者に属するのでなければ,「ソクラテスと座っているソクラテスが同一であるかどうか,一つのものが一つのものの反対か,反対とは何か,どれだけの仕方で語られるのか」を考察する人とは誰のことだろうか? 他のそうしたことどもについても同様である.そしてこれらは〈一〉としての一つのものや〈あるもの〉としての〈あるもの〉の自体的属性であり,数として,線として,火としての〔〈あるもの〉や一つのものの自体的属性〕ではないのだから,それらにとっての〈何であるか〉と付帯する事柄とを認識することが,かの学知に属することは明らかである.これらの事柄の探求者たちは,哲学することによって〔探求するの〕ではなかったという点で誤ったのではなく,実体はより先なる事柄であって,それについて彼らは何も理解していなかったからである.ちょうど数としての数に固有の諸属性があり (例えば奇数性,偶数性,通約可能性,等しさ,超過,不足),それらは自体的かつ相互的に諸々の数に属するのであって (同様にして,他のものどもは,固さ,不動のもの,動くもの,重さのないもの,重さのあるもの,に固有である),そのようにして〈あるもの〉としての〈あるもの〉にも何らかの固有な事柄があり,それらをめぐって真理を考究することが哲学者に属するのである.
[1004b17] その証拠は次の通りである.すなわち,一方で問答家たちとソフィストたちは哲学者と同じ姿を装っている.というのも,ソフィスト的技術は現れの上でのみ知恵であるものであり,問答家は全ての事柄について問答するのであって,〈ある〉は全ての事柄に共通であり,問答家がこれらについて問答するのは,それらが哲学に相応しい事柄であることのゆえであることは明らかである.つまり,ソフィスト的技術と問答法は哲学と同一の類を指向しているのだが,しかし一方は能力の方式の点で〔哲学と〕相違し,他方は生の選択の点で相違するのだ.問答法がそれらについて試行的であるところの事柄について,哲学は認識的である.他方,ソフィスト的技術は現れの上での〔知恵〕であるが,〔実際に知恵で〕あるわけではないのだ.
要約
- 上記の様々な事柄,および本質存在を対象とする単一の学知である (確認).
- 上記の事柄は全て,〈一〉としての〈一〉,〈ある〉としての〈あるもの〉の自体的属性である.
- それらを対象とする学知は,それらの〈何であるか〉と付帯的な事柄の認識を行う.
- この考察は哲学者の仕事である.
- その証拠に,哲学者と同様に〈ある〉を扱う問答家とソフィストの技術は,哲学と異なり認識・知恵ではない.