『メタフュシカ』Γ1 〈あるもの〉としての〈あるもの〉の研究の存在.諸学科との弁別

Met. Γ1. テクストは基本的に Cassin & Narcy (1989) (以下 CN) を用いる (Ross, Jaeger と異なって所謂 α-family の写本を優先している).Hecquet-Devienne がより新しいテクストだが,未見.

[1003a21] 〈あるもの〉としての〈あるもの〉と,それにそれ自体として付帯するものどもとを観照する,或る学知がある.この学知は,部分的なものとして語られる諸学知のどれとも同一ではない.というのも,他の諸学知のどれも,〈あるもの〉としての〈あるもの〉について普遍的に考察してはおらず,むしろそれ〔=〈あるもの〉〕の或る部分を切り取って,それ〔=〈あるもの〉〕について付帯的なものを観照しているのである.例えば諸学知のうちでは数学的諸学のように.諸原理と最高の諸原因を我々は探究しているのだが,これらがそれ自体として或る自然本性の〔諸原因・諸原理〕であるということは明らかである.それゆえ,〈あるものども〉の諸基本要素を探究する人々もこれらの諸原理を探究していたのだから,〈あるもの〉の諸基本要素も,付帯的な仕方でではなく,むしろ〈あるものども〉としてあるということは必然である.それゆえ,我々も,〈あるもの〉としての〈あるもの〉の第一の諸原因を把握しなければならない.

[1003a21] ἔστιν ἐπιστήμη τις ἣ θεωρεῖ τὸ ὂν ᾗ ὂν καὶ τὰ τούτῳ ὑπάρχοντα καθ᾽ αὑτό. αὕτη δ᾽ ἐστὶν οὐδεμιᾷ τῶν ἐν μέρει λεγομένων ἡ αὐτή: οὐδεμία γὰρ τῶν ἄλλων ἐπισκοπεῖ καθόλου περὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὄν, ἀλλὰ μέρος αὐτοῦ τι ἀποτεμόμεναι [25] περὶ τούτου θεωροῦσι τὸ συμβεβηκός, οἷον αἱ μαθηματικαὶ τῶν ἐπιστημῶν. ἐπεὶ δὲ τὰς ἀρχὰς καὶ τὰς ἀκροτάτας αἰτίας ζητοῦμεν, δῆλον ὡς φύσεώς τινος αὐτὰς ἀναγκαῖον εἶναι καθ᾽ αὑτήν. εἰ οὖν καὶ οἱ τὰ στοιχεῖα τῶν ὄντων ζητοῦντες ταύτας τὰς ἀρχὰς ἐζήτουν, ἀνάγκη καὶ τὰ [30] στοιχεῖα τοῦ ὄντος εἶναι μὴ κατὰ συμβεβηκὸς ἀλλ᾽ ᾗ ὄντα: διὸ καὶ ἡμῖν τοῦ ὄντος ᾗ ὂν τὰς πρώτας αἰτίας ληπτέον.

要約

  • (i)〈あるもの〉としての〈あるもの〉の学知が存在する.(ii) それは〈あるものども〉の一部を扱う学知とは異なる.
    • 学科的な学知 (e.g. 数学的諸学) は〈あるもの〉の一部について (i.e. 〈あるもの〉全体からするとその付帯性を) 考察するにすぎない.
    • 我々の探究する最高の原因は φύσις のそれである点で自然学者の探究対象と同じである.一方,自然学者は〈あるものども〉としての諸基本要素を探究した.我々は〈あるもの〉としての〈あるもの〉の原因を探究する必要がある.

先行研究

CN はなんというか議論に危なげがない.

  • CN: 'περὶ τούτου' (a25). 異読のある (J) περί + gen./acc. の違いはおそらく重要ではない.問題は τούτο の内容.ふつうは μέρος とされる (e.g. Tricot).この場合 τὸ συμβεβηκός は (アレクサンドロス以来) 自体的付帯性と同一視される.それは確かに可能だが (cf. 1004b7ff.),第一章の économie のなかでは,むしろ自体的付帯性と対比されているように見える.
  • CN: 'ἀλλ᾽ ᾗ ὄντα' (a30-31). EJ Moerbeke が複数だが,校訂では単数とされてきた.確かに Corpus には ᾗ の繰り返しの際に単数と複数が分かれる場合は存在しない (文法的には問題なく可能だが).–– しかし,文脈上は複数が極めて適切である.Γ1 では「τὸ ὂν ᾗ ὂν の学が存在しうるのに,未だ存在しない」という主張が試みられており,(a) 一方で部分的な学知 (αὕτη δ᾽ ...) との,(b) 他方で自然学 (ἐπεὶ δὲ ...) との対比によってこれが示されている.
    1. 第一の事例としては数学が挙げられているが,部分的学科であればなんでも (自然学,神学……) 同じである.
    2. φύσις (entité) は「自然的事物の諸要素」から転じて「何らかの本質という完全に一般的なもの (la complète généralité d'une essence quelconque)」を指す (cf. Heidegger).上述の複数/単数の違いは二種類の学知の違いのしるしとなる: 自然学者は (プロタゴラス的に)〈あるもの〉を単なる自然的なもろもろの〈あるものども〉の一まとまりと見なしている (ゆえに叙述もプロタゴラス的になる).それに対して新しい学は〈あるもの〉の単一の本質に関わらなければならない.
  • Kirwan: 一方で,「〈あるもの〉としての (qua things-that-is)」は主題を単一の事象に限定しているようにも見える (cf. (i) E1 1026a23-32 (不動の実体),(ii) K7 1064a28 (離在し不動であるもの) etc. (iii) Γ1 の「或る自然本性」もそう読める).とはいえ他方,(iv) E1 ではそうした第一哲学が「普遍的」とされる.(v) Γ1 では特殊な学知と対比される.(vi) 'qua'-句は副詞的に取るのがふつう.––結局「〈あるもの〉としての」は対象ではなく研究の性質を述べたものと思われる.