『自然学』I 8 のアポリア提示 Horstschäfer (1998) 'Über Prinzipien', Kap.8 #1
- Titus Maria Horstschäfer (1998) 'Über Prinzipien'. De Gruyter.
- Kap. 8. "Physik I.8: 'Die Lösung einer Aporie der Vorgänger'". 381-423 [うち 381-399].
『自然学』1巻の注解から8章の部分を読む.細かい論点も丁寧に拾われている (そのぶん分量は多い.単純に話の繰り返しが多いのもある).前世紀の研究のサーヴェイとしても有用.
I.8, I.9 では,アリストテレスが確立した生成のモデルと先行学説のモデルとのちがいの明示が試みられる.まず自身のモデルが先行学説のもつ根本的アポリアを解消しうると論じる.I.8 はエレア派のアポリアを扱う.このアポリアが理論のいわば試金石となる.
Loux 1992 は,アポリア分析に I.7 の道具立てが用いられていないとする点で正しい.しかしそうすると οὕτω (191a23) が説明を要する (cf. Madigan 1992).なるほど Loux の述べる通り,I.8 では「〜として / 〜としてではなく」という区別によって生成命題を調べる新たな基準が導入されている.しかしこの導入は I.7 の 「ὑποκείμενον は数的に同一だが形相の点では複数だ」という区別によって初めて可能になっているのだ.
アリストテレスの解決が「唯一」の方式だという主張は,なるほど現実態/可能態による二つ目の解決の導入によって相対化される.とはいえ,「自体的/付帯的」概念による解決が二つ目の解決によって付加的説明を受ける限りで,依然唯一であるとは言える.
I.8 の批判対象はエレア派だけだろうか (Madigan)? エレア派のアポリアを出発点として思考した自然学者も同時に主題化されていると考えるのが妥当だろう (cf. I.4 187a32-37).この点に鑑みれば,I.8 と I.9 における先行学説の立場の対立が確立される: I.9 ではプラトンの立場が ἐκ μὴ ὄντος な生成を認めるものとされるのに対し,I.4 では自然学者の立場が ἐξ ὄντων な生成のみを可能とするものと整理される.これら両者の立場,および I.8 における,両方を否定するエレア派の立場,に対して,アリストテレスはある意味で両方が可能だと論じているのだ.
8.1 エレア派のアポリア (191a24-33)
エレア派のアポリアは以下の形を取る.
- 主張 (1): いかなる〈あるもの〉も生成・消滅しない.
- (1) の論拠:
- (2.1) 生成するものは (必然的に) [2.1.1] 〈あるもの〉からか,[2.1.2]〈ありはしないもの〉から生成する.
- (2.2) 両者 (2.1.1, 2.1.2) とも不可能である.
- (2.2) の論拠:
- (3.1) 〈あるもの〉は生成しない.(← 2.1.1)
- (3.2) 〈ありはしないもの〉からは何も生成しない.(← 2.1.2)
- (3.1) の論拠: (4.1)〈あるもの〉は既にあるから.
- (3.2) の論拠: (4.2) 何かが基礎に置かれるべきだから.
論拠の側で φθείρεσθαι が言及されないのは,おそらく,類比的な議論が可能だから.この言い落としはパルメニデスにも見られる (B8).
I.7 では〈あるもの〉と〈生成するもの〉が両者の原理の点から区別されていた.それゆえ,(1) の論拠となる以上,(2.1) は「生成する〈あるもの〉(Seidende, das wird) は……」の略記と見なすべきであろう.とはいえ「〈あるもの〉は……」と述べていないことには理由がある: エレア派的視点からはもっぱら論理的に (分析言明として) (2.1) が示されるべきであるが,「生成する〈あるもの〉」はそもそも形容矛盾である.他方 (2.1) は〈生成するもの〉については必然的に真である.Es gibt ein "Werden" であり,これはつねにすでに "Werden aus" を意味するからだ.(なるほど I.7 では aus etwas Werden が他の意味と区別されていた.だが,それは言語の表層構造における区別でしかないとも示されている.)
他方,"ἢ ἐξ ὄντος ἢ ἐκ μὴ ὄντος" は (A) 存在的にも (B) 述定的にも取りうる.Ross, Code は B で読む.だがそうすると,¬φ なものから φ なものが生成できない理由が不可解になる.これに応答して Code は「¬φ なもの」が指示対象を持ちそうにないことが問題だとする.−− 述定解釈の問題は,以下の諸点に存する.(i) エレア派の論証は,Code の言うような性質変化のみならず,生成変化の過程全般を拒否しているはずである.(ii) Ross-Code 解釈では μὴ ὄν 側の論拠が複雑になりすぎる.(iii) 述定的な「ある」をエレア派は知らなかった.アリストテレスによれば,まさにそのために彼らはアポリアに逢着したのだ.(iv) 対応箇所 I.4, 187a32-33 は端的な「ある」「あらぬ」を問題にしている.(v) Ross-Code は存在解釈の場合 ἐξ ὄντος が変だと言うが,エレア派にとってはこれもアポリアとなる.
それゆえ 191a27-31 は (A) の意味でしかありえない.エレア派にとって 'ὄν' はつねに das Seiende selbst を指示するため,ἐξ ὄντος な生成はありえない.「一」と「多」同様,「ある」と「生成する」も矛盾する概念なのだ.他方アリストテレスは,I.2-3 で前者を論駁したのと同様の仕方で,ここで後者についても両立することを示す.
'οὔτε γὰρ τὸ ὂν γίγνεσθαι' と 'ἔκ τε μὴ ὄντος οὐδὲν ἂν γενέσθαι' は一致しないが,これは補えば以下のようになる.
- 「生成するものは〈あるもの〉から生成しない」:
- (a) の論拠: (a0) 〈あるもの〉からは何も生成しない.
- (a0) の論拠: (a1) 〈あるもの〉は生成しない.
- (a1) の論拠: (a2) 〈あるもの〉は既にある.
- 「生成するものは〈ありはしないもの〉から生成しない」:
- (b) の論拠: (b1)〈ありはしないもの〉からは何も生成しない.
- (b1) の論拠: (b0)〈ありはしないもの〉は生成しない.
- (b0) の論拠: (b2) 何かが現存する (vorhanden) 必要がある (ὑποκεῖσθαι γάρ τι δεῖν).
Loux によれば,(b2) は (b1) の単なる言い換えにすぎない; これをさらに基礎付けようとする Code, Lear の試みは誤っており,これはむしろ一種の要請である.–– しかし,(b2) は (b1) の理由を提供している: (b0) から,生成するものは一種の〈あるもの〉になり,そこで (a) の議論が再び当てはまる.〈あるもの〉からの生成が「直接的に」不可能なのに対し,〈ありはしないもの〉からの生成は,いわば「間接的に」不可能なのである.この不均衡は B8 の「いかにして,何から増大するのか?」と問う議論にも含意されている (cf. KRS2, 250).–– B8 自体の論証とその Phys. I 8 における再構成との相違点の一つは,後者では時間的側面が後景に退いていることである.これは I 7 の生成分析の非時間性に対応している.
Barnes はパルメニデスの議論は一種のトートロジーであってジレンマではないと解釈したが,以上の I 8 解釈に鑑みれば,ジレンマ形式を取っているとはいえ,I 8 でもトートロジー的性格は保存されている,と考えられる.
最後に,エレア派は以上の議論を強めている (verstärken) と述べられている.〈あるもの〉には「生成する」のみならず他のいかなる述語も述定されえないと論じているからだと思われる.