『メタフュシカ』E1 #2 観照的学知としての数学と神学。神学は普遍的でもある

Metaph. E1, 1026a6ff.


[1026a6] さて,自然学が観照的であることは,以上より明らかである。しかし数学もまた観照的である。だが〔数学が〕不動で離在するものの〔学知〕であるかどうかは明らかではない。そうではあるが,幾つかの数学的学知が,不動のものとして,また離在するものとして観照することは,明らかである。もし何か永遠で不動で離在するものがあるとすれば,〔これを〕認識することは観照的学知に属するが,しかしながら,少なくとも自然学には属さないし (というのも,自然学は何らかの運動するものをめぐるものだから),また数学にも属さないのであり,むしろ両者に先立つ学知に属する。というのも,一方で自然学は離在するが不動ではないものについての学知であり,他方で数学のうち幾つかの学知は,不動であるがおそらく離在はせず,むしろ質料の内なるものとしてあるものについての学知であるのだが,その一方で,第一の学知は,離在し不動であるものについてのものでもあるのだ。全ての原因は永遠であることが必然であるのだが,これら〔離在し不動であるもの〕は,この上なく〔永遠である〕。というのも,それらは,神的なもののうち明らかなものどもの原因だからである。

[1026a18] したがって,三つの学知がありうる。つまり数学,自然学,神学である (というのも,神がどこかにあるとして,こうした自然のうちにあることは明らかではないからである)。そして,最も尊い類についての学知は,最も尊いものでなければならない。だから,観照的諸学知は他の諸学知よりも最も望ましいものであり,一方でこの学知〔つまり神学〕は,観照的諸学知のなかでも最も望ましいものなのである。それというのも,「第一哲学は普遍的であるか,それとも何らかの類,或る一つの自然本性についてあるのか」ということを,ひとは行き詰まりとするかもしれないから。というのも,数学的諸学知のうちでさえ,同一の方式があるわけではなく,むしろ幾何学天文学が何らか同一の自然本性についてあるのであるが,一方で普遍的な学知は全ての事柄に共通であるから。だから,自然的に構成される諸本質存在のほかには,別の何らかの本質存在はありはしないのだとすれば,自然学は第一の学知でありうる。その一方で,何か不動の本質存在があるとすれば,この学知はより先であり第一でもある哲学であって,かくして普遍的である−−第一なのだから。そして,〈あるもの〉としての〈あるもの〉をめぐって観照することが,この学知に属することになるだろう−−〈あるもの〉として〔の〈あるもの〉が〕〈何であるか〉も,〔〈あるもの〉としての〈あるもの〉に〕属する事柄も。

要約

全然要約になっていないが,まあ仕方ない。

  • 自然学以外の観照的学知にはどのようなものがあるか。
    • まず数学観照的である。
    • だが,このほかに,不動で離在するものを観照するもの (= 神学) がある。
      • 不動のものの観照は自然学には属さない。
      • 数学的対象は不動だが,おそらく離在はしない (質料に内属する)。
        • だが,数学はそれを離在するものとして観照する。
      • 離在し不動であるものは,永遠であり,神的・可視的なもの (= 天体運動) の原因である。
  • したがって,観照的学知は数学・自然学・神学に三分類できる。
    • 神が自然のうちにあるかは明らかでない以上,自然学と神学は切り分ける必要がある。
    • 尊さ・望ましさの順序: 神学 > その他の観照的諸学知 > その他の学知。
      • 学知の尊さ・望ましさは,学知の対象の尊さ・望ましさに対応するから。
    • 〔三分類の動機:〕神学が普遍的学知でもあること〔→ 普遍的学知を別個に立てなくてよいこと〕の明示。
      • このことは自明ではない: 普遍的学知 / 特定の対象についての学知は排反に見える。
        • 数学は専ら後者である。
        • 〔ただし,研究対象が全体を尽くすなら,両者は一致する。〕
        • もし自然的対象が本質存在を網羅するなら,これが第一でありうる。
        • もし不動の (離在する) 本質存在があるなら,これを扱う神学は第一であり,ゆえに普遍的である。
          • 〈あるもの〉としての〈あるもの〉の本質と付帯する事柄の観照も神学に属する。

文献注

  • K.: 前半部では physics / metaphysics を「〈あるもの〉の類・部分を扱うかどうか」で区別していたのに,この後半部では「〈あるもの〉の別の類を形而上学が扱うかどうか」で区別しており,整合しない。この不整合を解決する方針は,二つありうる。(1) 本章は執筆時期を異にする二つの素材の clumsy recension である。(2) アリストテレスは,「自然的学知も〈あるもの〉の或る類についてのものになっている」(1025b18-19) が含意する論証が不適切であって,むしろ 1026a23-32 で主張するように,同じ学知が〈あるもの〉の全体と部分を共に扱いうるということに気付いていた。(cf. Natorp: "καὶ περὶ χωριστὰ καὶ ἀκίνητα" (1026a16) に着目。不可能な提案ではない。)
    • 〔そもそもこれが真正の不整合なのか,少し疑問に思う。アリストテレスは前半ではそもそも形而上学なるものを立てていないし,したがってこれと自然学の区別もしていない。諸学は「〈あるもの〉である限りの〈あるもの〉は扱わない」と述べているに過ぎない。かつこの言明も「扱い得ない」という意味ではなく,「(いまのところ) 現に扱っていない」という事実言明だと解釈できるのではないか。Cf.「こうした帰納から」(1025b15)。〕
  • K.: 「第一なのだから,普遍的である」という much-discussed words は次のように読める。「形而上学が第一哲学なのは,第一の存在者を扱うから。形而上学が普遍的なのは,第一の存在者の研究が,それとの依存関係を明らかにすることを通じて,全ての存在者について研究することになるから。そうしたものを我々は存在論と呼びうるのであり,そうした存在論は一般的でも特殊でもある」。〔Ross も概ね同様の方向性で解釈している。〕ただし彼の形而上学存在論より広い: (1) 第一の存在者についてのあらゆる真理を扱いうる点において,(2) 単一性 (Δ, I) や論理法則 (Γ3-8) をも扱う点において。