『ティマイオス』27c1-29d6 ティマイオスの「序曲」

Pl. Tim. 27c1-29d6. 冒頭の議論は飛ばしてティマイオスのモノローグの導入部から読み始める。Archer-Hind, Cornford, Zeyl を参照する。帰省していたことなどがあって種山訳は参照できていない。


[27c1] ティマイオス いやソクラテス,事実それこそ,浅短な思慮にも与っている限りの人々が皆行うことです––つまり大小あらゆる仕事の手始めに,いつでも神に何か呼びかけるのです。我々は万物についての言論をなそうとしているので––生成したものとしての万物について,あるいは不生であるものとしての万物についても,ですが––,我々が完全に道に迷っているのでなければ,神々や女神たちに呼びかけて,最も彼らの心に適い,次いで我々の心に適うように全てのことを語るよう祈願する必要があります。そして,神々に関する事柄にはこのように訴えましょう。他方で我々の事柄には,あなた方が極めて容易に学びうる仕方で,そして私は私が考える仕方で提案されたことどもについてあたうかぎり明示するような仕方で,訴えなければなりません。

[27d5] そこで,私の考えによれば,まず次のことが区別されなければなりません––つねにあり,生成のないものは何か? また,つねに生成し,決してありはしないものは何か? まことに,思考によって言論とともに把握されうるものはつねに同一のものどもに即してあり,他方これに対し,思いによって理のない感覚とともに思われうるものは,生成し消滅し,かくして決してありはしないのです。加えて,全ての生成するものは必然的に何らかの原因によって生成します。というのも,原因なしにはいかなる生成もありえないからです。製作者が同一のものどもに即してあるものの方をつねに眺め,こうした何らかの範型を一緒に用いながら,範型の形と力とを作り上げる場合には,このように全てを完成させることが立派なことであるに違いありません。生成しているものを眺め,生み出された範型を一緒に用いて作り上げたような場合には,立派ではないのです。

[28b2] 全天界––あるいは宇宙,あるいは何であれそう名付けられることで最もよく受け入れられるような名称を,我々は名付けておきましょう––について,まずは,万物をめぐって最初に探求されるべきであるとまさに想定されることを,それゆえ探究しなければなりません。すなわち,つねにあったのであり,生成のいかなる始源も持たないのか,それとも生成したのであり,何らかの始源から始まったのか,ということを。––万物は生成したのです。というのも,それは可視であり,触れることができ,物体も有していて,全てのそうしたものは感覚可能であり,感覚可能なものは,思いによって感覚とともに把握可能であり,生成し生み出されたのだと思われますから。さらに我々は,生成するものについて,何らかの原因によって生成したことが必然であると主張します。さて,万物の創造者ないし父を発見することは一仕事であり,発見して語ることは全ての人にとって不可能です。ですから彼について,今度は次のことを精査しなければなりません。すなわち,諸々の範型に似せて,組み立てる者がこの天界を作り上げていたのかどうか––同一のものどもに即して同様にあるものに相即して作り上げていたのか,それとも生成したものに相即して作り上げていたのか? 実際,この宇宙が美しいものであり,製作者が善い者であるなら,永遠なるものの方を眺めていたことは明らかですが,一方で,語ることさえ習俗に反することが事実であるなら,生成しているものの方を眺めていたということになります。それでは,誰の目にも,永遠なものの方を眺めていたことは明らかです。というのも,宇宙は生成したもののうち最も美しいものであり,製作者は諸原因のうちもっとも優れた者なのですから。すると,このように,生成したものは,言論と思慮とによって把握されたもの,すなわち同一なものどもに即してあるものに相即して制作されたのです。

[29b1] 以上のことが成り立つ以上,さらに,この宇宙全体が何かの似姿であることは必然です。実際,最も重要なのは,全てのものを自然本性に即した始まりから始めることです。そこで,似姿とその範型について,次のことを規定しなければなりません,すなわち,諸言論がその諸対象を導くのは,それと同種でありながらであって,そして一方で,安定し確固としていて知性によって明らかであるものの諸言論は,安定しており不変なのですが––論駁されえず,征服されえない言論であることが可能であり相応しくもある限りにおいて,このうちどれも欠けるべきではありません––,他方で,あの範型に似せて作られてはいるが,似姿であるものについての諸言論は,似姿であり,比例によって諸範型の諸言論なのであって,というのも,生成に対して真実在がある仕方で,信念に対して真理があるのです。すると,ソクラテス,しばしば,多くのもの,すなわち神々や万物の生成について,あらゆる点で完全に自分自身と一致する言論それ自体を与えることができないようにわれわれが生まれついているとしても,あなたは驚かないでしょう。しかし他のものに劣らず似姿を我々が提供するとすれば,私という論じる人やあなた方という判定する人が人間的な生まれを有しているということを思い出して,その似姿に満足しなければなりません。それゆえ,これらのことについてありそうな言論を受け入れるなら,もはやこれ以上さらに探究することはふさわしくないのです。

[29d4] ソクラテス 実に見事だ,ティマイオス,そして全くもって君の命ずる通りに受け入れなければならない。さて,君の序曲を我々は大いに受け入れよう。我々にとっての本曲を引き続き完成させてくれ。

要約

  • ティマイオスは神々に祈願し,ついで自説を展開する。
  • まず二種類のものが区別され,認識論的・存在論的性格が規定される。
    1. 「つねにあり,生成のないもの」: (E1) 思考によって言論とともに把握され,(O1) つねに同一のものに即してある。
    2. 「つねに生成し,決してありはしないもの」: (E2) 思いによって理のない感覚とともに思われ,(O2) 生成消滅し,ありはしない。(& 生成には原因がある。)
  • 天界 (=宇宙,万物) は感覚可能であり,ゆえに生成したものである。他方,製作者は––それを発見して語ることは誰にもできないが––永遠なるものを範型として天界を作ったはずである (その方が善いから)。
  • 言論とその説明対象は同種である。ゆえに,範型についての言論が確固たる不変のものであるのに対し,範型の似姿に過ぎない生成するものについての言論は,それ自体が範型についての言論の似姿であり,完全に整合的なものにならない。
  • ソクラテスは以上のティマイオスの議論を称えつつ,これを「序曲」と位置づけ,「本曲」への移行を促す。

文献注

  • C.: 実在が二層に分かたれる––「生成するもの」の世界 = 感覚的世界 (低次) と言論 (= 数学・問答法) とともに把握される世界 (高次)。ここで,「生成」の両義性が,プラトンが時間の始まりを認めていたか否かの論争の原因となる。
    • Coming into existence としての genesis. この場合始まりがあることになる。これは「父とその子孫」「製作者」のイメージに呼応する。Cf. Soph. 265b, Phlb. 26eff.
    • To be in process of change としての genesis.「つねに生成する」という語はこちらを示唆する。直後で言われる感覚界との関連も見やすい。
    • プロクロスおよび近代の諸権威は後者の線を擁護する。またプロクロスはこの点でクセノクラテス以来の主流アカデメイア派の伝統に従っている (cf. Arist. De Caelo 279b33)。プロクロスは論敵としてプルタルコス,アッティコスにのみ言及している (Taylor)。C. もこちらを取る。
  • C.: ゆえに生成の「原因」は perpetually sustaining cause であり,これが時間における生成の物語という mythical form で提示される。Resp. における理想国家の歴史叙述と似た手法。
  • C.: 生成したものを範型とすべきでない–– cf. Resp. X, Soph. 265.
  • C.: 「ありそうな言論」が厳密な学知でありえないのは,説明対象であるつねに変化する自然的事物と同じ階層に属するからである。Cf. 線分の比喩。ゆえに「ミュートスは baseless fiction ではなく the nearest approximation wchich can "provisionally" be made to exact truth だからだ」(Taylor) という意見は誤りである。対話篇のミュートス的性格は 'stripping off the veil of allegory' によって除去できる種類のものではなく,科学的散文へと翻訳しえない要素は残る。
  • なお Johansen (2004), ch.8 は上記見解に反論している。Cf. Lloyd (1991).