『メタフュシカ』Z3 基礎に置かれるものとしての本質存在
Metaph. Z3.
[1028b33] 本質存在は,少なくとも四つのものにおいて––それより多くの仕方ではないとしても––この上なく語られる。というのも,〈それであるとは何であったかということ〉,普遍,類が,各々のものの本質存在であると思われるのであり,またこれらのうち第四に基礎に置かれるものがそうだと思われる。基礎に置かれるものとは,他のものがそれに関して語られ,それ自身はもはや他のものに関して語られないところのものである。このことのゆえに,これについて第一に規定しなければならない。というのも,基礎に置かれるものがこの上なく第一に本質存在であると思われるからである。何らかの質料はこうした仕方で語られ,形は別の仕方で語られ,第三にそれらからなるものが語られるので(質料と私が言うのは例えば青銅であり,形と言うのは像の形であり,それらからなるものとは複合体としての鋳像である),したがって,もし形相が質料より先にいっそうあるものであるなら,また,同じ議論を通じて,両者からなるものよりも先にあるだろう。
[1029a7] さて,今や,一体本質存在とは何であるのかということが,大まかに述べられた。すなわち,それは基礎に置かれるものに関して〔語られること〕なく,むしろそれに関して他のものどもが〔語られる〕ところのものである。だが,そのようにだけ〔あるの〕であってはならない。というのも,〔それでは〕充分でないから。というのも,そのもの自体が明らかでないし,さらに,質料が本質存在になるから。というのも,この質料が本質存在でないとすると,他の何が生き残るだろうか。というのも,〔質料が〕取り去られたとき,他の何ものも残らないように思われるからである。というのも,物体と異なるものは属性や行為や能力であり,長さや幅や深さは量であって本質存在ではなく(というのも,量は本質存在ではないから),むしろ,これらが帰属する第一のものが本質存在だから。
[1029a16] しかし実際のところ,長さや深さや幅が取り去られたなら,いかなる残存するものも我々は見ることはない––これらによって規定されているものが何かあり,したがって,このように考察するなら,質料のみが本質存在であると思われることが必然である,というのでなければ。質料と私が言うのは,それ自体としては,何かでも,量でも,〈あるもの〉を規定している他の何であるとも語られないものである。というのも,これらの各々がそれに関して述定されるものであって,それにとっての〈ある〉ことが諸述定の各々とも異なっているようなものが,何かあるのであり(というのも,他のものどもは本質存在に述定されるが,本質存在は質料に述定されるから),したがって終端それ自体は,何かでも量でも他の何でもないから。実際また諸否定言明でもない。というのも,これらも付帯的に帰属するだろうから。
[1029a26] そこで,これらのことから観照するなら,本質存在は質料であるということが帰結する。だが,それは不可能である。というのも,離在するものや〈或るこれ〉は本質存在にこの上なく帰属すると思われるのであり,そのことのゆえに,形相と両者からなるものは質料より一層本質存在であると思われるだろうから。それゆえ,一方で両者からなる本質存在––私が言うのは質料と形とからなる本質存在のことである––は斥けられねばならない,というのも,より後でありより明らかだから。他方で,質料も或る仕方では明らかである。第三の本質存在について考察しなければならない,というのもそれが最も困難をはらんでいるから。諸本質存在は感覚されるもののうちの何かであると同意されており,したがってこれらにおいて第一のものが探究されなければならない。というのも,よりよく認識されるものへと移行することが,有益であるから。というのも学びは,そのように,全ての人にとって,本性上より少なく認識されるものを通って,より一層よく認識されるものへと生成するから。そして,ちょうど行為において,各人にとっての善から,全体的な善を各人にとっての善にすることのように,各人にとってよりよく知られることから,本性上知られることを各人にとって知られることにすることが我々の務めである。各人にとってよりよく認識され第一であるものは,しばしば僅かにしか認識されず,〈あるもの〉の少ししか,あるいは全く,有さない。しかし同様に,容易に知られることどもから各人に知られることが全体的に知られることを知ることを試みなければならない––ちょうど既に述べた通り,これら自身から移行しながら。
要約
- 本質存在の候補: (i) τὸ τί ἦν εἶναι, (ii) τὸ καθόλου, (iii) τὸ γένος, (iv) τὸ ὑποκείμενον.
(iv) から検討する。質料・形相・複合体のいずれが基礎に置かれるものか。
- 形相・質料はそれらの複合体より先にある。
「本質存在は基礎に置かれるものである」という定義は充分ではない。
- 「基礎に置かれるもの」の内実そのものが明らかではない。
- 質料が (意図に反して) 本質存在だということになる。
- 質料なしには属性・行為・能力はない。
- 長さ・幅・深さは本質存在ではなく量であり,これらは質料に帰属する。
質料 (=それ自体としてはどのカテゴリーにも属さないもの) が述定の終端に来るもの (= 基礎に置かれるもの) であり (質料 ← 本質存在 ← 他の諸カテゴリー),ゆえに上記の定義では質料が唯一の本質存在だということになる。
反対論拠: 本質存在は (i) 離在する (ii)〈或るこれ〉であり,これらの特徴は質料よりも形相・複合体によりよく当てはまる。
- 他方で複合体はより後・より明らかである。質料もある意味では明らかである。第三候補の形相はより難しい。ゆえに,前者から後者へと考察を進めなければならない。
内容注
- R.: 「質料も或る仕方では明らかである」––類比によって (Al.)。cf. Phys. I 7 191a7-11.
- B.: Phys. II 1 では,基礎に置かれるあらゆる自然的事物が実体であるとされた。だが Z3 では本質存在にとって基礎に置かれるものが構成的かどうかが問われている。ソクラテスを本質存在にする the core subject がソクラテスの (of) 本質存在だと示唆される。
- B.: 「本質存在は質料・形相・複合体のどれか」の議論において「形而上学的」水準に移行する。
- B.: 基礎に置かれるもの・本質・普遍をこの順で探究する理由は (あるとしても) 示されていない。
- B.: 1029a9 の結論は「形相は質料より一層 (more than) 本質存在である」であり「質料ではなく (rather than)」ではない。本質存在である度合いを認めている。
- B.:「第三の本質存在について考察しなければならない」––どこでか? Z4 (本質論), あるいは H2. だが文脈からして,本質論を形相論と見なすべきでないように思われる。