『メタフュシカ』Z1 問いの導入: 実体とは何か

Metaph. Z1. Ross の注解と Burnyeat の 'the signposts' を参照する(一周目はこの二つに絞る。いろいろ見るとかえってわけが分からなくなると思う)。


[1028a10] 〈あるもの〉は,ちょうど我々が『どれほどの仕方かについて』において以前に区別した仕方で,多様に語られる。というのも,〔〈あるもの〉は〕一方で〈何であるか〉と或るこれを意味表示し,他方で量・質,あるいはその他のそのようなカテゴリーの各々を意味表示する。それほどの数の仕方で〈あるもの〉は語られるのだが,これらのうち〈何であるか〉が第一であることは明らかである。まさにこの〈何であるか〉が実体を意味表示するのだが(というのも,或るこれがどのようであるかを我々が語るとき,よいか悪いかを我々は語るのであって,三ペーキュスである・人間であるとは言わない一方,〈何であるか〉を語るときは,白いである・熱い・三ペーキュスであると言うのではなく,人である・神であると言うから),他方で他のものどもは,「このようにあるものどものうち或るものどもは量であり,或るものどもは質,或るものどもは属性,或るものどもは何かほかのものである」という点で,〈あるもの〉だと語られる。このことのゆえに,ひとはまた,「歩くこと,健康であること,座っていることは,各々,それらの〈あるもの〉を意味表示し,同様に,他のものどもについても,こうしたものどもの何であれ何かが〔各々の〈あるもの〉を意味表示するのか〕?」ということをも,行き詰まりとしうる。というのも,これらのうちのどれも,それ自体として,本性上,実体から離在することが可能であるわけではなく,むしろ一層,〔歩くこと・健康であること・座っていることが〈あるもの〉である〕以上,歩くもの・座るもの・健康なものが,〈あるもの〉どもに属するのだ。これらは一層あるように思われる。なぜなら,それらの基礎に置かれるものが何か規定されているのであり(これは実体であり個別的なものである),まさにこの基礎に置かれるものが,こうしたカテゴリーにおいて反映されているから。というのも,よいものや座っているものは,この〔基礎に置かれる〕ものなしには語られないから。なので,この〔実体〕を通じて,それら〔=よいもの等々〕の各々もあるのであり,したがって,第一に〈あるもの〉であり,何かであるのではなく,端的にあるものは,実体であるのかもしれない。

[1028a31] さて,〈第一のもの〉は多様に語られる。全て等しなみに実体は第一である−−説明規定の点でも,認識の点でも,時間の点でも。というのも,他のカテゴリーの何一つ離在せず,この実体のみが離在するから。そしてこれは説明規定において第一である(というのも,各々のものの説明規定のうちに実体の説明規定が内属することが必然だから)。そして各々をこの上なく知っていると我々が考えるのは,質・量・時を認識しているときよりむしろ,人間とは何であるか,火とは何であるかを認識しているときである−−一方これら〔= 質・量・時〕自体の各々を我々が理解するのも,量や質とは何であるかを我々が認識しているときである。そしてまた,昔も今もつねに探求されつねに行き詰まりとされたこと,すなわち〈あるもの〉とは何であるか,とは,実体とは何であるか,ということであり(というのも,或る人々はこれ〔=〈あるもの〉〕を一つであると主張し,或る人々は一つより多いと主張し,或る人々は限られていると主張し,或る人々は無限であると主張したから),そのことのゆえに,我々にとっても,この上なく,第一に,言ってみれば唯一,観照しなければならないのは,このような仕方で〈あるもの〉とは何であるのかということである。

要約

  • 〈あるもの〉は多様に語られる: 〈何であるか〉= 或るこれ,量,質 etc.
  • これら諸カテゴリーのうち〈何であるか〉= 実体が第一である。
  • 〈歩くこと〉より〈歩くもの〉のほうが一層〈あるもの〉である。

    • 〈歩くもの〉には基礎に置かれるもの=実体が規定されているから。
  • 実体は3つの点で「第一」である: 説明規定,認識,時間。

    • 説明規定: 実体の説明規定がその他のものの説明規定に内属する。
    • 認識: (i) 実体の認識はその他のものの認識に先立つ。(ii) 量・質の理解も,量や質が〈何であるか〉の認識である。
    • 時間: 実体のみが離在する。
  • 「〈あるもの〉とは何であるか」という問いは,「実体とは何であるか」に帰着する。

訳注

  • εἴπερ (a24) の意味の取り方に悩んだ。

内容注

  • R.: 「何であるか」と「或るこれ」は実体の二側面を指す:「何であるか」は或るものの「何であるか」であり,本質的述定を指す; 他方「或るこれ」は何かの「或るこれ」ではなく,属性に対する実体を指す。まだ οὐσία は「真にあるもの」を漠然と指しているだけである。
  • R.: それらの基礎に置かれるものが何か規定されている: 「歩くもの」はある定まった人・動物を想定させるが,「歩くこと」はそうではない。

  • B.: 冒頭に小辞がないことは論考が (Eと) 独立に書かれていることを示す。実際 E の末尾の「ある限りのあるもの」というキャッチフレーズは ZHΘ にも Λ にも登場しない。

  • B.: οὐσία の 訳語 substance には二つの短所がある。(1) εἰμί との結びつきの消去,(2) イデアとの関連の消去。ゆえに B. は 'substantial being' と訳す。
  • B.: Δ7 の内容が Z で 'πρότερον' と指示されていることは,上記の説への反論にはならない; cross-reference でありうる (Jaeger)。
  • B.:「実体とは何であるか」は両義的で二つの答え方が可能である: (a) 実体であるもののリスト (→ Z2), (b) 実体の説明・分析 (→ Z3)。

Burnyeat, A Map of Metaphysics Zeta, Introduction.

  • Z巻を単に問答法的・アポリアー的論考と見るのは間違いである−−同巻は「実体は形相である」ことを示すという単一の積極的目的を有する。他方で,Z巻に最も成熟した形而上学的思想を見出すのも一面的である−−ZはHΘの序論という性格を有する。
  • 非線形: Z1-2 の後に Z3, Z4ff., Z13ff., Z17 の四つの独立のセクションが続く。各々は独立に「実体的な〈あるもの〉は形相である」という同一の結論に辿り着く。先立つ結論は前提されない
  • 二つのレベル: 各々のセクションは論理的 (logical) レベルから後自然学的 (metaphysical) レベルへと移行する (λογικῶς / τὰ μετὰ τὰ φυσικά に触発された語法。ただしこれらに依存してはいない。)