GC I 3 318a13-b18. このペースだと4回になるかもしれない。電子データを見ていたので気付かなかったけれど Joachim は注解付きだった。以後こちらも内容注に反映する。
[318a13] 生成の継続の原因が何であるかということも,充分な行き詰まりを有しているーー消滅するものが〈ありはしないもの〉へと去ってゆくが,〈ありはしないもの〉は決してないのである以上は (というのも,〈ありはしないもの〉は〈何〉でも〈どのように〉でも〈どれほど〉でも〈どこ〉でもないから)。それゆえ,〈あるものども〉の何かがつねに去ってゆく以上,一体何のゆえに,あらゆるものは消尽してしまい消え去らなかったのか,仮にも,生成するものの各々がそこから生成するところのものが有限であったのなら? というのも実際,〔生成が自然を〕取り残して止むということがないのは,〔生成するものの各々が〕そこから生成するところのものが無限であることのゆえにではないから。というのも,このことは不可能であるから。というのも,現実態に即しては何ものも無限ではない一方,可能態においては分割によって〔無限であり〕,したがって,この分割のみが,何かより小さいものがつねに生成するということによって取り残して止みはしないものでなければならなかっただろう。しかし現在このことを我々は見てはいない。
[318a23] では,このものの消滅は他のものの生成であり,このものの生成は他のものの消滅であるということのゆえに,変化が絶え間なくあるということが必然なのだろうか? 原理と消滅が〈あるものども〉の各々について同様にあるということのゆえに,この生成が充分な原因であると考えなければならない。
[318a27] だが,一体何のゆえに,一方で或るものどもが端的にあり消滅すると語られ,他方で他のものどもが端的にではない仕方で語られるのか,ということを,再び考察しなければならない,仮にも〈これ〉の生成と〈これ〉の消滅とが同一であり,〈これ〉の消滅と〈これ〉の生成とが同一であるとすれば。というのも,このことは何らかの説明を要求するから。というのも,「いま端的に消滅する」と我々は言うのであり,「これが」とだけ言うのではない。そしてこちらは端的な生成であり,あちらは端的な消滅である。〈これ〉は何かになるが,端的に生成するのではない。というのも,学ぶ人は理解しているものになると我々は言うが,端的に生成すると言うのではないから。
[318a35] さて,我々はしばしば,「このものどもは〈或るこれ〉を意味表示する一方,他のものどもは意味表示しない」と述べることで規定するのであるが,ちょうどそのように,探求されていることどもも,このことから帰結する。というのも,変化するものがそれらへと変化するところのものどもが異なるのである。例えば,もしかすると,火への道のりは端的な生成である一方,何かの,例えば土の消滅であり,土の生成は何らかの生成であって端的にある生成ではないが,消滅は端的な消滅,例えば火の消滅であるかもしれないーーちょうどパルメニデスが,二つのものがあると語り,〈あるもの〉と〈ありはしないもの〉は火と水であると主張したように。実際,これらを基礎措定することも,他のこうしたものどもを基礎措定することも,何ら違いがない。というのも,我々は方式を探求しているのであり,基礎に置かれるものを探求しているのではないからである。すると,〈ありはしないもの〉へと端的にある道のりは端的な消滅であり,〈端的にあるもの〉へ〔の道のり〕は端的な生成である。だから,それらによって規定するところのものどもが,火であれ,土であれ,他の何かであれ,それらの一方が〈あるもの〉であり,他のものが〈あらぬもの〉であるだろう。それゆえある仕方では,以上の点において,端的に生成し消滅することは端的でない仕方で〔生成し消滅すること〕と異なるだろうが,ある他の仕方では質料の点でどのようなものであるかが〔異なるだろう〕。というのも,質料の相違が〈或るこれ〉をいっそう意味表示するところのその質料は,一層実体であり,質料の〔相違が〕欠如〔をいっそう意味表示するところのその質料は,いっそう〕〈ありはしないもの〉だからである。例えば,熱が何らかの述定であり形相である一方,冷が欠如であるなら,土や火はこれらの相違の点で異なるからである。
要約
- 「(端的な) 消滅があるなら,なぜ全てが消滅して生成がストップしないのか?」という行き詰まりがある。
- (i) (端的な) 消滅は全くありはしないものへの消滅であり,(ii) 生成の起点が無限ではないから。
- (ii) への補足: ものが無限であるのは可能態においてのみであるが,この意味で無限だとすると,生成=可能態における分割になる。これは経験的事実に反する。
- 実体A (τουδὶ) の生成と実体B (τουδὶ) の消滅が同一であるという主張は,「実体の生成消滅は端的な生成消滅である」という主張との関係で,説明を要する。「A が生成する,すなわち B が消滅する」ということは,「A が φ になる」ということとどう違うのか?
- 「あるものである P の端的な生成は,ありはしないもの Q の端的でない消滅である」「ありはしないもの P の端的でない生成は,あるもの Q の端的な消滅である」と述べることで,問題は解決される。(質料 P / Q に何が入るか (基礎措定されるか) は,さしあたりどうでもよい。)
訳注
- "ταύτην εἶναι μόνην τὴν μὴ ὑπολείπουσαν τῷ γίνεσθαί τι ἀεὶ ἔλαττον" (318a20f.): ταύτην μόνην を主語,τὴν μὴ ὑπολείπουσαν τῷ γίνεσθαί τι ἀεὶ ἔλαττον を補語と解し,また主語は διαίρεσις を指すと解した。(Joachim, Williams および金山訳では全体が主語になり「生成」を指しているように見えるが,一まとまりで捉えると μόνην の処理が難しくなるように思う。また διαίρεσις を指すとした方が議論の構造が明確になる。)
- それにしても,ὑπολείπειν の訳語はもう少しなんとかしたい。
内容注
第二段落
- Williams: P の消滅は Q の生成である (P ≠ Q) とすることで,いわば性質変化と類比的に解決される。
- Joachim: 'ταύτην' は質料因,とくに第一質料を指す。〔あまり納得できない; 唐突に感じる。〕