『生成消滅論』I 3 #1 端的な生成に係る諸問題

GC I 3 317a32-318a13.

Phys. I (特に I 8) との連動に関心を持ったので,GC I 3 を3回くらいに分けて読むことにした。テクストは Joachim を用い,注解は Williams*1 を参照する。Symp. Arist. の Algra 論文*2は一度原文を通読してから読みたい。


[317a32] これらのことどもが規定されたので,まずは何かが端的に生成し消滅するか,あるいは厳密な仕方では端的に生成消滅することはないが,つねになにかから何かに生成するのか,ということを観照すべきである。私が言うのは,例えば,病んでいる人が健康になり,健康な人が病む,あるいは,大きなものが小さくなり,小さなものが大きくなり,他のすべてがこの仕方で〔生成する〕ということである。というのも,端的な生成があるだろうとすれば,ありはしないものから何かが端的に生成するだろうし,したがって,或るものどもについて,「ありはしないもの」が属すると真なる仕方で語りうることになろう。というのも,何らかの生成が何かでありはしないものからあるが (例えば白くないもの,あるいは美しくないものからあるように),端的な生成は端的にありはしないものからであるから。

[317b5] 「端的に」が意味表示するのは,「〈あるもの〉の各々のカテゴリーに即して第一に」ということ,あるいは「普遍的」であり「全てを包括して」,ということである。さて,第一のものであるなら,実体でないものからの実体の生成があるだろう。実体も〈これ〉もそれに属しはしないところのものには,他のいかなるカテゴリーも属さないことは明らかである。例えば質も量も場所も属さない (というのも,諸実体の諸属性は離在するだろうから)。だがもし全般的に〈ありはしないもの〉であるなら,全てのものどもに普遍的に否定言明が属するだろうし,したがって,何ものからも〈生成するもの〉が生成しないことが必然である。

[317b13] これらのことについては,他の論述において,行き詰まりの踏査と規定が一層よくなされたが,いまは手短に以下のごとく述べられるべきである。すなわち,ある仕方では端的にあらぬものから生成するが,他の仕方では,つねに,あるものから生成する。というのも,両方の仕方で語られるところの,可能態としてあるが完成態としてはあらぬものが予めあることが必然であるから。だが,これらのことが規定されても,驚くべき行き詰まりを有する事柄を,再び検討し直さければならない。すなわち,可能的にあるものからあるのであれ,他の何らかの仕方であるのであれ,端的な生成はどのようにしてあるのか,ということを。というのも,〈このようなもの〉〈これだけの数のもの〉〈どこ〉の生成ではない,実体や〈これ〉の生成があるかどうかを行き詰まりとしうるからである (消滅についても同じ仕方で行き詰まりうる)。というのも,もし何かが生成するなら,「何らかの実体が可能態においてあるだろうが,完成態においてはありはせず,この実体から生成があるだろうし,この実体へと〈消滅するもの〉が変化することは必然であるだろう」ということは明らかである。

[317b25] それでは,他のものどもの何かが完成態においてこれに属するだろうか? 私が言うのは,例えば,量や質や場所は可能態においてのみ〈これ〉であり〈あるもの〉であるだろうが,端的には〈これ〉でも〈あるもの〉でもないのではないか? ということである。というのも,何もありはせず,すべてが可能態においてあるのであれば,そのような仕方でありはしないものは離在することが帰結し,またさらに,最初に哲学した人々が最も恐れ続けたこと,すなわち何ら先在することのないものから生成することが帰結する。だが,もし〈或るこれ〉ないしは実体であることが属さず,すでに述べられた他のものどもの何かが属するとすれば,まさに我々が述べた仕方で,実体の諸属性は離在するだろう。

[317b33] これらのことについて,可能な限りのことを論究すべきであり,また生成がつねにあることの原因は何であるかということも,端的な生成と部分的生成とについて,論究すべきである。原因の一つはそこから運動の開始があると我々が述べるところのものであり,一つは質料であるのだが,後者の種類の原因を語らなければならない。というのも,前者の原因については運動についての説明規定のうちで先ほど次のように語られたがーーすなわち,一方は全ての時に動かないものであり,他方はつねに動くものであるとーー,その一方で,これらのうち,他の先行する動かない原理について分割することは,より先の哲学の仕事であるが,一方で連続的に運動することを通じて他のものを動かすものについては,何が各々について語られることどものそうした原因であるかということを,後ほど説明しなければならない。しかし目下のところは,質料の種のうちに措定されている原因を述べよう。その原因のゆえに,消滅と生成はつねに自然を取り残して止むということがないのである。というのも,おそらくこのことは,いま行き詰まりとされたことについて,また端的な消滅と生成とについて,どのように語られるべきかということと,同時に明らかになるだろうから。

要約

  • 「端的な生成」(「端的にありはしないものから」の生成) と「何らかの生成」(「何々でありはしないものから」の生成) が区別される。
  • 「端的に」は (a)「実体として」(b)「普遍的に」の二つの意味に取れる。
    1. 端的な生成が「実体でないものからの実体の生成」を意味する場合,実体でないものは,全ての属性 P について P ではない (ここで P はあらゆるカテゴリーに属する)。(さもなければ,P が実体から離在することになってしまう。)
    2. 端的な生成が「何でもないものからの生成」を意味する場合,やはり生成の始点があらゆる属性 P について P ではないことになる。
  • 「生成の始点は完成態においては端的にあらぬが,可能態においてはある」と解決できる。
    • しかし依然,いかにして実体 /〈これ〉の生成が可能であるかは問題である。
  • 「〈これ〉や〈あるもの〉が可能態においてあるとき,端的にあるわけではない」ということで解決できる。すなわち,可能態においては離在する。
  • 以上の問題に加えて,端的/部分的生成がつねにあることの原因が探究されねばならない。不動の始動因は第一哲学の対象であり,動くものの始動因については後述する。いまは質料因を問題にしたい。

内容注

  • Williams: "What we have here is ek which I have translated 'from', but which is normally rendered 'out of'. ... We cannot in English talk about x's becoming F out of not-F. ... [The use of 'from'] serves to prevent an ambiguity which is there in the Greek. ... At this point (pace Aquinas ad loc.) Aristotle makes no play with this ambiguity; but elsewhere there is a serious danger of equivocation. (Cf. Physics I.7. 190a24ff. ...)" (80f.) 〔この後 'from' の生成は 'out of' と異なり真正の困難をはらむ,と論じられるが,あまり釈然としない。〕
  • Williams:「端的に」の (a) 理解につき,「諸カテゴリー中で第一のもの」すなわち実体を意味するか (Aquinas),「各カテゴリーの中で各々第一のもの」すなわち「実体」「量」「質」etc. を意味するか (Philoponus),という選択肢があるが,内容上は同一の論証に帰着する。〔ここでは前者で読む。〕
  • Williams:「他の論述」は Phys. I 6-9 と解されるのが常であるが,ここの議論と平仄が合わない: Phys. I 8 では「端的な生成」は否定される。

*1:C. J. F. Williams (1982) Aristotle's De Generatione et Corrputione. Clarendon Press.

*2:Keimpe Algra (2004) "On Generation and Corrpution I. 3: Substantial Change" Frans de Haas and Jaap Mansfeld (eds.) Aristotle: On Generation and Corruption Book I. Symposium Aristotelicum. Clarendon Press. 91-121.