『自然学』II 1 #2 質料としての自然・形相としての自然

Phys. II 1, 193a9-b21.


[193a9] 自然本性,および自然的にあるものどもの本質存在ウーシアー,は各々に第一に内属するものであり,それ自体として形状を欠いているーー例えば木材が寝椅子の自然本性であり,青銅が鋳像の自然本性であるようにーー,と幾人かの人々は考えている。その証拠に,アンティフォンは,「もし寝椅子を土に埋めて,腐敗が力を得て芽が出たなら,寝椅子ではなく木が生じるだろう」と述べている。すなわち,人為に従う状態や技術は付帯的に属するものであるのに対し,本質存在である自然はそれらを蒙りつつ絶えず存続するものでもある,ということである。これらの各々も他の何かに対して同一のこのことを蒙っているとすれば (例えば青銅や金や他の何であれ,水に対して,あるいは骨や木が土に対して,また他の何であれ同様に),その他の何かが自然であり,それらの本質存在である。まさにそのことのゆえに,ある人は火を,ある人は土を,ある人は空気,ある人は水,ある人はそれらのいくつか,ある人はそれらすべてを,〈あるものども〉の自然本性であると主張している。というのも,そうしたものとして彼らの誰かが想定するものは,一つであれ,より多くであれ,そのもの,またはそれだけの数のものが全ての本質存在であり,その他全てはこれらの属性,ないし性向,状態であり,これらの本質存在は何であれ永遠であるが (というのも,それらによるそれら自身からの変化はないから),他のものどもは数限りなく生成し消滅するのだ,と彼らは主張するから。

[193a28] さて,一つの方式では,自然について以上のごとくに語られる,すなわち各々について基礎に置かれる第一の質料であり,運動と変化の原理を自分自身のうちに持つものどもの質料であるが,他の仕方では形であり説明規定に即する形相である。というのも,ちょうど,技術に即したものや技術的なものが技術と言われるように,自然に即するものや自然的なものが自然と言われるのである。もしただ可能態においてのみ寝椅子であり,寝椅子の形相を未だ有していないとすれば,何かが技術に即しているとは未だ我々は主張しないだろうし,技術であるとも主張しない。そして自然的に構成されたものどもにおいても〔何かが自然に即しているとか自然であると我々は主張しないだろう〕。というのも,可能態において肉や骨であるものは,肉や骨とは何であるかをそれを用いて我々が定義し語るところの説明規定に即した形相を得る前は,未だそれ自身の自然本性を有していないし,自然的にあることもないから。したがって,別の仕方では,原理は,それら自身のうちに運動の原理を有するものどもの形ないしは形相であり,それは説明規定に即してでなければ離在しない。(これらからなるものは自然ではないが,自然的にある。例えば人間のように。) そして,形は質料よりいっそう自然本性である。というのも,各々のものは,完成態においてあるときには,可能態においてあるときよりいっそう〔自然本性で〕あると語られるから。

[193b8] さらに,人間は人間から生じるが,寝椅子は寝椅子から生じはしない。このことのゆえに,形状は自然本性ではなく,むしろ木が自然本性である,と人々は主張する。というのも,芽吹くときは,寝椅子ではなく木が生じるだろうからである。それゆえ,もし形状が技術であるなら,形も自然本性である。というのも,人間から人間が生じるから。

[193b12] さらに,生成として語られる自然は,自然への道である。というのは,医療が医術への道ではなく健康への道であるごとくにではない。というのも,医療が医術から医術へと行くのではないということが必然だが,自然の自然に対するあり方はそのようではなく,むしろ,生長するものは,生長する限りで,何かから何かへと進むのだ。それでは,何が生長するのか?そこから生長するところのそれがではなく,それへと生長するところのそれが,生長するのだ。したがって,形が自然本性である。他方で,形と自然本性とは二通りに語られる。というのも,欠如は何らかの仕方で形相であるから。だが,欠如や何か反対のものが端的な生成をめぐってあるかあらぬかということは,後ほど考察すべきである。

要約

  • 自然観A: 自然とは (i)「各々に第一に内属するもの」=「第一の質料」であり,(ii) 人為と独立に永遠に存続するものである。
    • アンティフォン:「土に埋められた寝椅子からは木が生じる」。
  • 自然観B: 自然とは「〈何であるか〉の説明規定に即する形相」である。
    • 根拠1: 骨は骨の形相を得てはじめて骨の自然本性を有する。
  • 根拠2: 完成態においてあるものは,可能態においてあるものより一層「自然本性である」と言われる。
  • 根拠3: 技術に属する形状は再生産されないが,そうでない形は再生産され,したがって自然本性と呼びうる。
  • 根拠4: 生長の終点としての形が,生成としての自然の終点なる自然本性である。

訳注

  • Ross は 'The MS. reading in b11 εἰ δ' ἄρα τοῦτο τέχνη, καὶ ἡ μορφὴ φύσις does not run at all naturally' (505) とし 'εἰ δ' ἄρα τοῦτο φύσις' と修正するが,写本的根拠がないうえ,それほど読みやすくなるわけでもないため,採らない。なるほど原文はひどく省略的ではあるが,以下のように (dialectical な文脈に即して) 補えば理解可能だと思う:
    • 「寝椅子の形状 (σχῆμα) が (自然本性ではなく) 技術的所産なら,形状が再生産されないという事実が,形 (μορφή) 全般から自然本性の資格を奪い,単なる質料のみが自然本性であるとする自然観Aの論拠になることはない。現に「人間」という形 (μορφή) は再生産される。」

内容注

  • Ross: 'τὸ πρῶτον ἐνυπάρχον' は (木材・青銅を例とする以上) Simpl. のように「究極の (ultimate) 構成要素」と解することはできない。むしろ単に近接 (proximate) 構成要素の意味。また「寝椅子」「銅像」がここでは「自然的にあるものども」の例になっていると読む他ない。
  • Couloubaritsis: 'ἡ μορφὴ καὶ τὸ εἶδος κατὰ τὸν λόγον' とあるように,forme は単なる configuration (σχῆμα) とは異なり raison d'être (λόγος) を要する。cf. PA 640b22ff.: 人間の死体は同名異義的にしか人間でない (なお λόγος も単なる parole ou définition ではなく une certaine objectivation de l'analyse である)。