『自然学』A9 プラトン主義批判

Phys. A9. Symp. Arist. の担当者は Broadie, Quarantotto 本は Lennox. Broadie は注釈と別立てで A9 のプラトン的背景と (論点先取を正当化する) 対話的文脈,および永遠的運動に関する議論をしているが (pp.314-340),ここではさしあたり省略する。Lennox の注釈は特に古注への指示に富む。


[191b35] さて,ある他の人々もこの自然本性に触れてはいるが,しかし充分にではない。というのも,「パルメニデスが正確に述べたように,〈ありはしないもの〉から端的に生成する」ということに,彼らは同意するからだ。そして彼らには,〔自然本性は〕数において一つである限りで,可能態の点でも一つだけであると思われたのだ。このことは,極めて多くのことを左右する。というのも,我々は質料と欠如は異なると主張するのであって,これらの一方すなわち質料は付帯的に〈ありはしないもの〉であり,他方で欠如はそれ自体として〔ありはしないもの〕であって,一方すなわち質料はある仕方で実体にも近いが,他方はどんな意味でも実体に近くない。

[192a6] 他方でこの人々は,〈ありはしないもの〉は同様にして〈大〉および〈小〉であるーーこれらが一緒になるにせよ,各々離れているにせよーー〔と主張する〕。したがって,この三つ組のあり方は,先ほどの〔三つ組の〕あり方と,全く別のあり方である。というのも,彼らは次の点まで進んだからだ。すなわち,何らかの自然が基礎に置かれるべきであるが,しかしこの一つの自然を彼らは作ったのである。というのも,もし誰かが〈〔不定の〕二〉を作り,当の自然を〈大〉〈小〉と呼んだとしても,それでもやはり同じものを作るからである。というのも,もう一方の自然を見過ごしているからである。というのも,一方の自然は,存続しつつ,形によって,生成するものどもの補助原因であるーーちょうど母親のようにーーが,反対者の一方の部分はしばしば,思考によってその自然に属する有害なものをじっと見る人には,全く存在しないように想像されうるから。というのも,何かが神的であり,善く,望ましいとき,一方でこれと反対のものがあると我々は主張し,他方のものはそれ自身の自然本性に即して,本性上このものを目指し,求めてゆくのだ,と主張するから。他方で彼らからは,反対のものがそれ自身の消滅を求めてゆくことが帰結する。そしてしかし,欠けることがないのだから,エイドスがそれ自体として自らを求めてゆくことはできないし,反対のものがそうすることもできないのであり (というのも,反対者は互いを破壊するから),〔エイドスを求めていく〕このものはむしろ質料である。ちょうど雌が雄へと求めてゆき,醜いものが美しいものへと求めてゆくように。それ自体として醜いのではなく,むしろ付帯的にであり,また〔それ自体として〕雌なのではなく,むしろ付帯的になのである。消滅しまた生成するということは一方ではあるのだが,他方では消滅も生成もしない。一方で,それのうちに〔欠如が〕あるものとしては,〔質料は〕それ自体として消滅する (というのも,消滅しうるもの,すなわち欠如が,これのうちにあるから)。

[192a27] 他方で,能力に即しては,それ自体として〔消滅する〕わけではなく,質料は不滅であり不生であることが必然である。というのも,もし仮に生成するとすれば,内属するそれから〔生成する〕ところのその何かが,まず基礎に置かれるべきだっただろうから。これは自然そのものであり,したがって生成の前にあるだろう (というのも,私が質料と言うのは,第一に各々の基礎に置かれるものであり,内属するそれから何かが付帯的でない仕方で生成するのである)。またもし消滅するなら,それへと最後に達するだろうし,したがって消滅してしまう前に消滅していることになるだろう。

[192a34] エイドスに即した原理をめぐっては,一つであるか,それとも多くの原理があるか,またそれは,ないしそれらは何であるかを,厳密に規定することは第一哲学の仕事であり,したがって,その時機までは保留しておこう。他方,自然的な,あるいは可滅的な形相をめぐっては,後に示されることどものうちで,我々は語ろう。さて,諸原理があること,それらが何であるか,数においていくつか,ということは,我々によってこのように規定されたとしよう。では,再び別の出発点から始めて述べよう。

要約

  • プラトニストは「基礎に置かれる自然」を少しだけしか理解していない。なぜなら彼らは (1) 端的な生成を認め,(2) 自然は可能態においても一つであるとするから。

    • その結果,我々がするように,質料と欠如を区別することができなくなる。
  • プラトニストは〈大〉と〈小〉に基礎に置かれる自然という一個同一の役割を割り当てている。したがって,〈ありはしないもの〉は欠如を含まず,原理の役割*1に関して真正の三つ組ではない。

    • 一方の自然 (受容体) と異なり,欠如は「有害なもの」だという (誤った) 想定のもとで見逃されやすいから。
      • アリストテレス的には,「神的な・善い・望ましいもの」とその反対者があるとき,基礎に置かれる自然が前者を求める。
      • 他方プラト二スト的には,反対者自体が (前者を求めた結果) 自身の消滅を求めることになってしまう。
  • 質料は欠如がそのうちにある限りでそれ自体として消滅する。

  • 質料は生成消滅の前にあるものだから,それ自身生成消滅することはできない。

  • エイドスに関する原理の議論 (離在するか等々) は自然学の範疇にないため保留する。

訳注

  • Lennox の指摘に従い写本上の根拠の弱い 'τι' (191b36) を読まない。
  • 'ὕλην καὶ στέρησιν ἕτερόν φαμεν εἶναι' (192a3-4): ここも意味に引きずられて中性になっている。
  • 'φθείρεται δὲ καὶ γίγνεται ἔστι μὲν ὥς, ἔστι δ' ὡς οὔ' (192a25-6): 文法的にどうなっているのかよく解らない。'ἔστι μὲν ὡς φθείρεται καὶ γίγνεται, ...' と同義と考えて訳した。

内容注

第一段落

  • Broadie: 'ἁπλῶς' は γίγνεσθαί のみに係るのではなく,γίγνεσθαί τι ἐκ μὴ ὄντος ないし ὁμολογοῦσιν に係り「単純素朴に」を意味する。前者 (coming to be so and so に対する coming to be simpliciter) は今後の議論に関わらない。
    • だが A8 との関係が明示されているこの文脈でこのように理解するのは難しいと思う。ただし何が正しいかは A8 における coming to be simpliciter をどう理解するかにもよるだろう。
  • Broadie: ここで言及されているパルメニデスの議論は,「生成は理解不能である,なぜなら,それは〈ありはしないもの〉からの生成でありえ,かつありはしないものからの生成は理解不能であるから」というもの (fr. 8, 7-9) である。
  • Broadie:「質料はある仕方で実体に近い」: Metaph. Η 1042b9; Θ 1949a36. ↔︎ Pl. Tim. 51a7-b2.
  • Lennox: 'αὐτῆς' の指す「基礎に置かれる自然」は質料+欠如 (Ross, Simpl.) ではなく,生成において留まるものである。〔なぜこう言うのか不明。〕
  • Lennox: 'δυνάμει μία' は「形相において一つ」と同義 (Ross, Charlton, Aquinas) ではなく,欠如である限りの非確定的潜勢力と,質料である限りの確定的・目標志向的潜勢力との区別が念頭に置かれている。

第二段落

  • Broadie:「反対者が自身の消滅を求めるのは不条理だ」というのは論点先取である。「反対者=基礎に置かれる自然が善を実際に得ることができる」ということが暗に前提されているから。実際また,アリストテレスも他の箇所 (Cael. I 281a28-33, Phys. Γ1) では基礎に置かれるものの否定性を認めている。
  • Broadie: 'τὸ ἐν ᾧ' は the contrary そのものを指す: "privation of sweetness in an apple in based on or consists in the positive sourness of the unripe fruit".〔不可能ではないかもしれないがトリッキーすぎるように思う。〕
  • Charlton: 'τὸ ἐν ᾧ' は Tim. で受容体を指して言われる (50d1)。やはり単に欠如を指す。総じてこの箇所には Tim. の言葉づかいへのアイロニカルな残響が聞き取れる。

第三段落

  • Broadie: ここでアリストテレスは永続的原理を措定した先行者 (エンペドクレス,デモクリトス,アナクサゴラス) との連続性を強調している。他方で「基礎に置かれるもの」は生成変化の episode に相対的である: あるところで「基礎に置かれるもの」の役割を果たすものが,他の文脈では生成変化しうる。

*1:Broadie: 'principal roles'.