Phys. A8. 本章については近年複数の解釈論文が出ているようだ。Quarantotto 本の担当者は I. Bodnár, Symp. Arist. の担当者は M. Leunissen.
[191a23] いにしえの人々の行き詰まりもこのようにただ一つの仕方で解決されるということを,これらのことの後に我々は述べよう。というのも,哲学について最初である人々は,〈あるものども〉の真理と本性を探究していたとき,脇に逸れたのであるーーいわば,経験の乏しさによって,何らか別の道へと押しやられて。そして彼らは,「生成するものは必然的に〈あるもの〉あるいは〈ありはしないもの〉から生成する一方,それらのどちらからも生成することは不可能である」ということのゆえに,〈あるものども〉は何一つ生成も消滅もしないと主張している。というのも,〈あるもの〉は生成しないし (というのも,いつもあるから),〈ありはしないもの〉からは何も生成しないから。というのも,何かが基礎に置かれるべきだから。そして実際このように,直ちに帰結することを誇張して,多なるものがあることはなく,〈あるもの〉そのもののみがある,と彼らは主張する。
[191a33] さて,かの人々はこの考えを以上の議論を通じて得た。他方で我々は次のように述べる。〈あるもの〉ないし〈ありはしないもの〉から生成すること,あるいは〈ありはしないもの〉または〈あるもの〉が何かをなすか被ること,あるいは何であれこれになることは,一つの仕方では医者が何かをなすことや被ること,あるいは医者から何かがあるまたは生成することと何ら異ならず,したがって,このことは二通りに語られるのだから,「〈あるもの〉も〈あるもの〉からなし,被る」ということも〔二通りに語られるの〕だということは明らかである。医者が家を建てるのは医者である限りにおいてではなく建築家である限りにおいてであって,白になるのは医者である限りではなく黒い限りにおいてである。だが医者である限りにおいて医術を行なったり,医者でなくなったりするのである。このうえなく支配的な仕方で,医者が何かをなし,被り,あるいは医者からなると我々が言うとき,医者である限りでこれらのことを被り,なし,なっているとすれば,「〈ありはしないもの〉から生成する」がこのこと,すなわち「ありはしない限りにおいて」ということを意味表示していることは明らかである。かの人々は分割しなかったことで離れたのであり,この無知のゆえに,次のようなほどのことにも同時に無知であった。すなわち,他のものどもの何一つ生成するともあるとも考えず,むしろ全ての生成を破棄するほどであったのだ。
[191b13] 他方の我々自身も,何ものも〈ありはしないもの〉から端的に生成するとは主張しないが,しかしながら何らかの仕方で〈ありはしないもの〉から,いわば付帯的に生成すると主張する (というのも,それ自体としてはあらぬものである欠如から,内在することなしに何らか生成するから。このことは驚くべきことであり,このように〈ありはしないもの〉から何かが生成するということは不可能である。)。同様にして,〈あるもの〉から〈あるもの〉が生成することもない,付帯的な仕方でなければ。そのような付帯的な仕方でこの〈あるもの〉も生成するのは,同じ仕方である。例えば動物から動物が生成し,何らかの動物から何らかの動物が生成するように。例えば犬が馬から生成するとしよう。というのも,犬が何らかの動物からのみ生成するのではなく,動物から生成し,しかし動物である限りの動物から生成するのではないことになろうから。というのも,このことは常に成り立っているから。もし何かが付帯的でない仕方で動物になるだろうとすれば,動物からあることはないだろうし,何らかの〈あるもの〉だとすれば,〈あるもの〉からあることはないだろうし,〈ありはしないもの〉からあるのでもないだろうから。というのも,〈ありはしないもの〉からあるものを我々は「ありはしない限りのもの」を意味表示するものだと述べてきたから。さらに,「すべてがあるかあらぬかである」ということも,我々は棄却しない。
[191b27] この方式は一つの方式だが,他の方式は,同じことどもを可能態と現実態とに即して述べることが許容されるというものである。このことは,他のところで,一層厳密に規定された。したがって,我々が述べてきたように,諸々の行き詰まりーーそれらを通じて,彼らは上述のことどものいくつかを強いられて棄却するのだがーーは解消される。というのも,このことのゆえに,以前の人々も,生成と消滅,および総じて変化についての道をこれほどまでに外れたのだから。というのも,かりにこの本性を見ていれば,彼らの全ての無知は解消しただろうから。
訳注
- 性が異なるものの,ὅ ἐστι καθ' αὑτὸ μὴ ὄν (191b15f.) は直前の στερήσεως に係ると考える。管見の限り主要な訳と注解はこの点で一致する。Ross さえ注を付していないのはやや不思議ではある。
- 191b20f. につき Ross の挿入を採らない。少なくとも同箇所の future less vivid は内容の奇妙さと符合している。
要約
第一段落
- A7 の議論を踏まえれば生成消滅を否定するエレア派の以下の行き詰まりも解消できる。
- 生成は〈あるもの〉ないしは〈ありはしないもの〉からの生成であるが,いずれも不可能である。
- 多なるものはなく,単一の〈あるもの〉自体だけがある。
第二段落
- 〈あるもの〉〈あらぬもの〉(1a) が〈あるこれ〉になること / から生成すること,(1b) なす・被ることは,医者 (2a) から何かが生成すること,(2b) 医者がなす・被ることと同様である。
- 「(a) 医者が/から何々へと生成する,(b) 医者がなす・被る」は各々 (i) 医者である限りで,(ii) 医者でありはしない限りで,の二通りに語られる。
- 同様に,「〈ありはしないもの〉から生成する」も,「〈ありはしない限りのもの〉から〈あるもの〉が生成する」と分析できる。これは問題を含まない。
第三段落
- 〈ありはしないもの〉(欠如) から何かが生成するのは付帯的にである。
- 〈あるもの〉(基礎に置かれるもの) から〈あるもの〉が生成するのは付帯的にである。
- (架空の生成事例)〈馬 → 犬〉と〈動物 → 動物〉はいずれも付帯的である。
第四段落
内容
第一段落
- 「ただ一つの仕方で (μοναχῶς)」: パルメニデス DK B2, 7-9 の引喩 (Leunissen)。
- 逆に言えば,A2-3 の議論は問題の核心に達していなかったことになる (Bodnár)。
- 「経験の乏しさによって (ὑπὸ ἀπειρίας)」: DK B7, 3-6. フィロポノス,テミスティコスが注する通り sc. ὑπὸ ἀπειρίας διαλεκτικῆς (Leunissen).
- Leunissen: εἶναι, γίγνεσθαι につき (a) existential / (b) predicative reading がありうる (veridical reading は文脈にそぐわない)。さらに後者は (b1) (一般的性質) F である/になる,(b2) ある実体である/になる,に分かれる。(a) 解釈を採るのは Loux 1992, Clarke 2015 および Leunissen. (b1) を採るのは Ross および Anagnostopoulos 2013. (b2) を採るのは Kelsey 2006.〔Bodnár も (b1). ただし「形相のみが〈あるもの〉である」と論じる。〕
第二段落
- 〈我々によりよく知られること → 本性上知られること〉の順序で論じられている (Leunissen)。
第三段落