『ニコマコス倫理学』II.1 人柄の徳は習慣により形成される
EN II.1 1103a14-b25. 普段読んでいるたぐいの論考より文体が練られていて読みやすい。2巻からなのは Taylor の注解*1を片手に読んでいるから。あまりこだわらずに読み進めたい。
[1103a14] そこで,徳というものは二重であって,一方は知性的な徳,他方は人柄の徳であり,知性的な徳は大部分が教示から生成し増大するのであり,まさにそのことのゆえに,経験と時間を必要とするが,一方で人柄の徳は習慣から結果として生じるのであり,そのことから,「エトス」から少し逸れて〔エートスという〕この名前を得ているのである。諸々の人柄の徳のどれも生まれつき我々の内に生じはしないということも,ここから明らかである。というのも,生まれつきあるものどもは何一つ別様に習慣づけられないからだ。例えば,石は本性上下に運ばれるのだから,上に運ばれるように習慣づけられることはありえないし,上へと数えきれない回数投げることで石を習慣づけることもできないし,火を下へと〔習慣づけることもできず〕,また別の仕方で本性上あるものどもの何一つとして,別様に習慣づけられることはありえない。したがって,徳は生まれつき内に生じるものでも,本性に反して内に生じるものでもなく,むしろ,それらを受け入れるように生まれついており,習慣によって完成されるところの我々のうちに生じるのである。
[1103a26] さらに,我々のもとに生まれつき生じる限りのものどもについては,それらに属する能力を先に我々は保持しており,後に現実活動を生み出すのであるが (諸感覚の場合にはまさにこのことが明らかである。というのも,我々は幾度も見ることや幾度も聴くことから諸感覚を得るのではなく,反対に,〔諸感覚を〕持つことで使用するのであって,使用することで持つのではないから),他方で我々は,先に実現することで,諸々の徳を得る。ちょうど他の諸々の技術についてもそうであるように。というのも,学んでからなすべきことどもを,我々はなすことで学ぶのだから。例えば,家を建てることで建築家になり,キタラを弾くことでキタラ奏者になるように。実際このようにして,正しいことどもをなすことで正義の人となるのであり,思慮あることどもをなすことで思慮深い人になるのであり,勇気あることどもをなすことで勇気ある人になるのである。諸ポリスにおいて起きていることも,このことを証言している。というのも,立法者たちは市民たちを習慣づけることで良いものにしたのであり,それが全ての立法者の目的なのであって,自らよいことをなさない限りの者どもは過ちを犯すのであり,この点で善き国制は悪しき国制と異なるのだから。
[1103b7] さらに,全ての徳は同じものどもから,同じものどもを通じて,生成し消滅するのであり,技術も同様である。というのも,キタラを弾くことから,よいキタラ奏者や悪いキタラ奏者になるのである。建築家や残る全ての者どもも類比的である。というのも,うまく家を建てることからよい建築家になるであろうし,まずい仕方で家を建てることから悪い建築家になるだろうから。というのも,仮にこのようでないとすれば,誰も教える者を必要とせず,誰もが悪いものどもではなく,よいものどもになるだろうから。実際,諸々の徳についてもこのようである。というのも,人々との取引におけることどもをなすことで,ある人々は正しく,他の人々は不正になるのであり,恐るべきことどものうちにあってことをなし,恐怖するよう習慣づけられるか,臆しないよう習慣づけられることで,ある人々は勇敢に,他の人々は臆病になるのである。欲望や怒りに関することどもも同様である。というのも,ある人々は節制する人や温和な人になり,別の人々は放埒な人や短気な人になるーーある人々はそうした状況でこれこれの仕方で振る舞うことから〔そうなるのであり〕,別の人々は〔そうした状況で,別の〕これこれの仕方で〔振る舞うことから,そうなるのである〕。一言で言えば,性向は,それと似た諸々の現実活動から生成するのである。このことのゆえに,何らかのたぐいの現実活動を生み出す必要がある。というのも,それらの相違に応じて諸々の性向が帰結するからである。それゆえ,幼少期からずっとこの仕方で習慣づけられているか,それともあの仕方で習慣づけられているか,ということは,些事ではなく,極めて重大であり,否むしろ全てである。
訳注
- "ὅσα μὲν φύσει ἡμῖν παραγίνεται, τὰς δυνάμεις τούτων ..." (1103a26f.): この ὅσα 節の内容は,後に 'τὰς δ᾽ ἀρετὰς' と対比されることを踏まえ,それら自身 δυνάμεις であると解する。したがって 'τὰς δυνάμεις τούτων' は部分属格で読む。
要約
第一段落
- 徳は (i) 知性的な徳と (ii) 人柄の徳に二分され,各々 (i) 教示と (ii) 習慣づけとによって生じる。
- 徳は本性上=生まれつき / 本性に反して我々のうちに生じるものではない。(本性は別様に習慣づけられないから。) むしろ我々は徳を受け入れる素地を本性上有し,習慣によって完成させる。
第二段落
- 生まれつき持つ能力と〔人柄の〕徳や技術*2とでは,能力の獲得とその現実活動との順序が異なる。
- 生まれつき持つ能力 (e.g. 感覚): 能力の保持 → 現実活動。
- 〔人柄の〕徳や技術: 現実活動 (習慣づけ) → 徳や技術の獲得・保持 (→ さらなる現実活動)。
- 事実,立法者は習慣づけにより市民を有徳にした。
第三段落
- 〔人柄の〕徳や技術 (および悪徳,技術の欠如*3 ),すなわち性向は,それと似た現実活動による習慣づけから生じる。
- それゆえ,幼少期からの習慣づけが最重要となる。
内容注
第一段落
- Taylor:「大部分が (τὸ πλεῖον) 教示から生成し増大する」: 知性的な徳においても習慣づけは一定の役割を果たすのであり,截然とした区分ではない。「経験と時間を必要とする」にも留保が必要 (cf. 1142a11-16)。
- Taylor は,第一段落の石の例はせいぜい徳が本性に反しないことを示すにすぎないとして,この議論を 'somewhat confused' と評する。だが例えば「全ての徳にはそれに対立する悪徳がある」という前提を補えば問題なく読めるだろう。
第二段落
- Taylor: より精確な議論は4章に俟つ。「能力」概念の腑分けが必要。
- Taylor によれば,ここまでの議論は『メノン』冒頭の問い ("ἔχεις μοι εἰπεῖν, ὦ Σώκρατες, (1) ἆρα διδακτὸν ἡ ἀρετή; (2) ἢ οὐ διδακτὸν ἀλλ᾽ ἀσκητόν; (3) ἢ οὔτε ἀσκητὸν οὔτε μαθητόν, ἀλλὰ φύσει παραγίγνεται τοῖς ἀνθρώποις (4) ἢ ἄλλῳ τινὶ τρόπῳ;") への解答になる。知性的な徳については (1), 人柄の徳については (2) で,いずれも (3) ではない。―― この指摘は興味深い。アリストテレスがソフィスト批判の文脈をどれくらい意識していたのかも気になるところ。
- Taylor: τέχνη - ποιεῖν, ἀρετή - πράττειν という字句上の対比を読み取りうる (cf. EN VI.2-5)。