スカール,カロウ『魔女狩り』

  • ジェフリ・スカール,ジョン・カロウ (2004)『魔女狩り』(ヨーロッパ史入門) 小泉徹訳,岩波書店。[G. Scarre, J. Callow (2001) Witchcraft and Magic in Sixteenth- and Seventeenth-Century Europe, 2nd ed., Palgrave.]

標題のトピックについての概説書。小著だがとても勉強になった。巻末のコメント付き関連文献表も有用。興味をもった叙述を要約的に抜き書きする。

(1.1) エヴァンス=プリチャードの witchcraft と sorcery の区別はヨーロッパの魔術に関してはあまり意味をなさない。魔女の用いた方法そのものに当事者たちは関心を有しなかった。(多くは農村地域の) 告発者が魔術のもたらす害悪 (maleficium) を恐れる一方,裁判官はむしろ大抵は被告と悪魔の関係を追及した。(1.2) 魔術は low magic と high magic に分けられる。前者は民間で口承される日常的・実践的魔術であり,後者はルネサンスの学識者たちが新プラトン主義の影響下で理論化した魔術である。High magic と悪魔の関係は教会からしばしば疑われたが,いずれにせよ Low magic が high magic から蒙った影響は少なかった。

(2.1) 神学的には悪魔は卓越した知性を持つ誘惑者であり,人間の自由意志の試金石である。それゆえ悪魔と契約し魔術を行うことは最大の邪悪であった。中世盛期以降における異端組織の一元的抑圧と悪魔への関心の増大は軌を一にしており,15世紀に魔女が神の敵として新たに規定されたとき,異端審問の枠組みが魔女裁判に転用された。「孤独な魔女」の表象はグリム童話などが生み出したもので,中近世の魔女像はむしろ組織化された大集団であった。(2.2) 現代の研究者は一致して,魔女として処刑された人の総数を最大で4万人ほどと見積もっている。ドイツの多くの地域は被害が甚大で,特に小規模国家は慢性的に魔女狩りが生じる傾向にあった。フランスでは女子修道院に多数の告発があった。イタリア・スペインは意外にも魔女裁判は少なく,また訴訟手続も慎重であった。イングランド魔女裁判は,大陸諸国と対照的に,悪魔との契約への関心が薄く,maleficium 自体に関心を向けた。新大陸では魔女狩りは相対的に少ない。セイラムはごく例外的な事例である。(2.3) 魔女の典型は,高齢の,貧しい女性である。ただし例えばモスクワでは被告の2/3は男であった。また過酷な魔女恐慌にあっては拷問による自白のスパイラルを通じあらゆる社会階層に属する男女が告発を受けた。

(3.1) 魔女や魔女迫害は様々に説明されてきた。魔女は抑圧的社会状況への抗議としての悪魔崇拝だったとか (ミシュレ),ヤヌスを中心とする民衆宗教だった (マリ) と唱えられ,また魔女迫害は金銭欲からの告発だとか,女の病治しに対する抑圧だ (エーレンライク,イングリシュ) などと論じられてきたが,これらの主張はもはや支持できない。(3.2) また戦争や飢饉といった災禍との直接的因果関係は必ずしも認められない。宗派抗争の具であった (トレヴァー=ローパー) という説も疑わしい。社会的緊張の解消という機能的説明 (トマス,マクファーレン),社会統御の手段という説明は様々な留保付きで有益である。しかしいずれにせよ,迫害が自己利益の産物であったと見ることはできない。(3.3) 魔女の実在は実際に信じられており,魔女裁判は真摯な動機に基づいていた。(3.4) 魔術が女性と関連づけられた理由は,女性嫌悪の文化的伝統に加え,社会的・経済的劣位のために悪魔の庇護に入る恐れがあると思われたこと,また maleficium の対象となる私的領域に責任を負っていたこと,が考えられる。

(4.1) 魔術の実在という信仰の衰退は科学革命と軌を一にするが,後者を直接の原因とすることはできない。むしろ運命を支配する人間的能力への自信が増大し,識字層の意識において擬人的諸力が後景に退いたことが,両者の共通の原因であると言える。(4.2) 他方で民衆文化においては魔術は生き残り続けた。魔女が消滅したのは,19Cの新救貧法と20Cの福祉改革により社会的不平等が解消されてからのことであった。