SEP「形而上学的根拠付け」Bliss and Trogdon, "Metaphysical Grounding" #1
- Ricki Bliss and Kelly Trogdon (2016) "Metaphysical Grounding" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.), pp.1-15.
ここ数ヶ月アリストテレスの αἰτία 論を勉強していて,現代で対応する議論となると一つは grounding かしら,と当たりを付けている*1。よし的外れであるにしても,それ自体として学んでおいて損はないだろう。
記事は半分に区切る。前半は第5節まで。
- ある行為は,敬虔であることによって (in virtue of),神々に愛される (プラトン)。
- 単純なものが存在することによって (because),複合的なものが存在する (ラッセル)。
- 「アリストテレス」という語が,それが元々使われた仕方と適切な仕方で因果的に結合しているということが,「アリストテレス」という語を我々が用いる際に,その語がアリストテレスを指示することの説明になる (explains) (クリプキ)。
これらの主張は,
- 同一性の主張ではない。(単純なものと複合的なものは別個のものである。)
- 因果的な主張ではない。(因果的事実は,語の指示対象を非因果的に決定する。)
- 純粋に様相的ではない。(「何かが敬虔ならば 2+3=5 である」は必然的だが,前者によって後者であるとは言えない。)
このような主張は日常生活にも登場する (e.g.「タクシー運転手が仕事を拒否してピケを張っているため (due to),ストが起きている」)。これらは「根拠付け (grounding)」の主張と呼ばれるべきだという提案がある。本項は5つの根本的問題に言及する。(i) 根拠付けは一元的 (unitary) か,(ii) 根拠付け概念は分析可能か,(iii) 根拠付け言明の論理形式,(iv) 根拠付けと説明の関係,(v) 必然性との関係。その後根拠付けの応用について論じ,最後に二つのさらなる問題を論じる。第一に,根拠付けの事実そのものは根拠を持つか。第二に,根拠付けへの懐疑。
1 根拠付けは一元的か?
根拠付けの支持者は (通時的同一性・因果関係 etc. 同様) 一元的 だと主張し (Audi, Rosen, Schaffer),反対派は一元的でないと主張する傾向にある (Daly, Hofweber, Koslicki, Wilson)。だが,根拠付けは多様だとする支持者もいる。この人々は,「一元論者が取り上げているのは形而上学的根拠付けであり,他に自然的根拠付け,規範的根拠付け等々が考えられる」とする (Fine)。
「「根拠付け」という類のもとに様々な種が属し,前者の意味で一元的,後者の意味で多様だ」とする考えもある。e.g. 根拠付け1 = 根拠付け+種差1,根拠付け2 = 根拠付け+種差2。根拠付け1が物質的組成に近いものなら,種差1は空間的共存に関係するだろう。根拠付け2が現実化関係に近いものなら,種差2は役割属性 (e.g. 遺伝子の役割) と役割を満たすもの (e.g. DNA 分子) の関係に関わるだろう。
種差を特定できない場合,「一元的な根拠付けと多様な根拠付けは確定可能なもの (determinable) と確定的なもの (determinate) の関係だ」という提案もある*2。
2 根拠付け概念は分析可能か?
根拠付け概念のこれ以上の特徴づけは可能だろうか?いくつかの試みはある。Bricker は根拠付けを命題間の関係とし,一方が本性上基礎的 (fundamental) で,他方がそれに付随 (supervene) するとき,そうだとする。Correia は,根拠付けられるものに関する本質的真理 (essential truths) が,根拠に結びつける,と論じる。
だが,根拠付けの支持者のあいだでは,根拠付けはプリミティヴで分析不可能だとするという見解が支配的である (Fine, Rodriguez-Pereyra, Rosen, Schaffer, Witmer et al.)。
3 根拠付け言明の論理形式
根拠付けが一元的だとすれば,その論理形式は何か。根拠付けの支持者のうち,属性・関係の実在に中立的であろうとする論者は,「根拠付け関係」が存在することにも中立的であろうとする。それゆえ,根拠付けを,非真理関数的文結合子 を用いて取り扱う (Correia, Fine)。(この立場は「関係項は文である」という立場にもコミットしていない。)
より楽観的な論者は,根拠付け関係の実在を認め,関係的述語 を用いて論じる。「ある事実 p) は諸事実 Δ により根拠付けられる」という定式化が標準的である。本項はこれに従う。
だが,根拠付け関係は関係項についてカテゴリー中立的である,と主張する人もいる (Cameron, Shaffer)。これに対して,関係項を事実に制限する論者からの反論としては,(1) 説明の文法に合致しない,(2) 一般的な形而上学的依存関係と区別できていない,というものがある。他方カテゴリー中立派は,説明は 'in virtue of' のように様々な統語論的形式を取りうる,と再反論するかもしれないが。
さらに,「根拠付け述語は四つ組関係を表現する」という提案もある。すなわち,根拠付け関係は,2つの事実と,それらの事実の提示様式 (modes of presentation) を含む。この提案の利点は,例えば「ある人の痛みを,それに対応する物理的性質 P が根拠付ける」と言いつつ,「事実がそれ自身を根拠付ける」ことの逆説を回避しうる点にある。この場合,非経験的 (non-experiencial) 提示様式のもとでの事実 P が,経験的 (experiencial) 提示様式のもとでの事実 P を基礎づける,と説明できる。(もっとも,提示様式を事実の構成要素とする概念主義的見解からすれば,この四項関係は二項関係の特殊事例でしかない。)
もう一つの「四つ組」的見解は,「根拠付けは対比をなすもの (contrastive) であり,事実と対比からなる」というものだ。e.g.「〈冒涜的であるより,むしろ敬虔である〉という事実が,〈神にとって憎むべきであるより,むしろ愛される〉という事実を根拠付ける」。この見解を支持する理由としては,第一に,「説明は対比的本性を持ち (van Fraassen),かつ根拠付けは説明に関わる」と主張しうる。第二に,根拠付けの推移性を確保できる (Schaffer)。
4 説明
根拠付けの支持者は,根拠付けと説明のあいだに密接な関係を見る。
第一に,説明は超内包性によって特徴付けられるが,根拠付けも超内包的であるように思われる*3。説明について例示すると,(i)「ソクラテスは存在する」(ii)「{ソクラテス}は存在する」(iii)「{ソクラテス}が存在するのは,ソクラテスが存在するからだ (because)」。(i) と (ii) は内包的に同値 (一方が真な可能世界では他方も真) だが,(iii) 中の両者を置換すると偽な文になる。これと対応する意味で,「ソクラテスは存在する」という事実が「{ソクラテス}は存在する」とい事実を根拠付ける,と言えそうである。
説明とは,一連の事実――そのうちのあるものどもが他のものどもと説明的関係 (explanatory relation) を結んでいるような,一連の事実だとしよう。一つ目の見解は,「根拠付けは数ある説明的関係の一つである」(Fine) というものだ。根拠付けに関連する説明概念は形而上学的であり,我々の説明への関心や理解に依存しない (Stevens)*4。
二つ目の見解は,「根拠付けは数ある支持関係 (backing relation) の一つである」というものだ。支持関係とは,説明を支持・是認 (underwrite) する決定関係 (determination relations) であって,説明はそれを追跡し (track) それに対応する (Kim, Ruben)。この場合,説明は形而上学的でも認知的・伝達的 (epistemic/communicative) でもありうる。後者の場合,ある事実が他の事実と説明的関係に立つか否かは,我々の関心や理解に左右されうる。
もう一つの見解は,根拠付けは説明的関係でも支持関係でもない,というものだ。Wilson は,きめの粗い形而上学的関係としての根拠付けの主張が際立った説明的含意を持つとは言えない,という懐疑的立場を取る。
5 必然性
根拠付けの支持者は皆,根拠付けが純粋に様相的な関係でないことには同意している (上述)。それでも,根拠付けと必然性には密接な関係があると思われる。直観的に,完全な根拠付け (full grounding) と部分的根拠付け (partial grounding) とは区別できる: [p & q] は [p] に部分的に根拠付けられ,[p ∨ q] は [p] に完全に根拠付けられる。完全な根拠付けは,形而上学的必然性を伴う,と言えそうである。これはデフォルトの見解である。
だが,これに反対する立場もある。例えば,f することを約束することは f すべきことを完全に根拠付けるが,前者は後者を形而上学的に必然化しない (f しうること,約束が強制によらないこと,等が必要)。だが,デフォルトの見解からは,そもそもそれは完全な根拠付けではない,と反論できる。
もう一つの重要な問題は,何が必然性を根拠付けるか,ということである。(1) [p] が形而上学的に必然的な事実なら,何が [p] を根拠付けるのか?(2) [p] が形而上学的に必然的であるという事実を,何が根拠付けるのか?
- 根拠付けの対象となるのは形而上学的に偶然的な事実のみである,という説もある。だが,例えば 2+3=5 を根拠付けるような,数・数学的構造等々に関する事実がある,とも考えられる。
- Fine は,[p] の形而上学的必然性が,特定の存在者の本質に関する事実により基礎づけられる,と考える。本質的特徴とは,ある存在者が何であるか (what) (↔ どうであるか (how)) を示す特徴である。本質的特徴がさらに根拠付けられうるかは議論がある。根拠付けられないとすると基礎的 (fundamental) だということになりうるが,例えば「オバマは人間である」という本質的事実が「基礎的事実」だというのは尤もらしくないかもしれない。*5
*1:関連してボルツァーノの Abfolge 論にも少し興味があるが,こちらはいよいよ何から読めばいいのか分からない。
*2:determinate-determinable というのは寡聞にして知らなかったが重要概念だろう。SEP にも記事がある (https://plato.stanford.edu/entries/determinate-determinables/)。例えば「赤色は色の determinate であり緋色の determinable だ」と言うらしい。こうした場合に種差が (明確には) 特定できない,というのはまあ分かる。
*3:この間 hyperintensionality が初耳と書いたけど,以下の議論どこかで読んだ気がする。倉田本?
*4:どういうことなのかよく分からなかった。関連して explanatory relation と次の backing relation との相違点もあまり理解できていない。
*5:最後の一段落は「基礎的事実は偶然的である」という見解に触れているが,あまり議論の繋がりがよく分からなかったので,省略する。