三種類の原理: 公理・定義・基礎措定 McKirahan, Principles and Proofs #3

  • McKirahan, Richard D. Principles and Proofs: Aristotle's Theory of Demostrative Science. Princeton: Princeton University Press. 36-49.

各パッセージごとに訳,訳注 (note on translation),検討 (discussion) という形式になっているので,それを反映して要約する。訳にもなるべく Mc. の解釈を反映させる。疑問点などは脚注に回す。

本章では以下の箇所が検討される: A1 71a11-17, A2 72a14-24, A10 76a31-41, b3-22, b35-77a4, A32 88b27-29.


A10 76a37-41

論証的知識において用いられる事柄のうち,ある事柄は各々の知識に固有であり,別の事柄は共通である〔…〕。固有であるのは例えば「線はこのようである」「直はこのようである」のようなことであり,共通であるのは例えば「等しいものから等しいものを取り去るなら,残りは等しい」ことである。

訳注

  • "論証的知識において用いられる事柄": 曖昧な語だが,文脈からして学問の原理。

検討

固有の原理と共通の原理を区別し,前者の一種である定義を例に挙げる。直後 (76b3) で述べられるように,もう一種類は実在主張 (existence claims) である。*1

A10 76b3-10

他方,それらがある〔実在する〕ことが受け入れられ,それらに関して知識が,それ自体として〔基体に〕存立する事柄を考察するところのもの――例えば算術が単位を考察し,幾何学が点と線を考察するように――も,固有な事柄である。というのも,これらがあることと,〔これらが〕これであることを,人々は受け入れるからである。その一方で,これらの属性自体は,各々が何を意味表示するかを受け入れている。例えば,算術が「〈奇数である〉〈偶数である〉〈四角形である〉〈立方数である〉は何を〔意味表示するか〕」を受け入れ,幾何学が「〈通約不可能である〉〈曲がる〉〈傾く〉が何を〔意味表示するか〕」を受け入れるように。他方である〔実在する〕ことは,共通の事柄,あるいは論証されている事柄を通じて証示される。

訳注

  • 「固有な事柄 (proper things)」: 先程の段落では命題だったが,ここでは事項 (items) すなわち基体 (subjects) と属性 (attributes) のことである。*2固有な原理とは,固有な事柄に特定の仕方で関わるものである。
  • 「それらがある〔実在する〕ことが受け入れられ〔るところのもの〕(those things that are assumed to exist)」: Ar. による学問の基体類の特徴付け。cf. 76b12 (ch.4).
  • 「それらに関して……」: 基体類のもう一つの特徴付け。cf. 76b22, A32 88b28, ch.4.
  • 「それ自体として」: καθ' αὑτά の意味は I.4, I.6 で論じられる。cf. ch.7.
  • 「これらがあることと,〔これらが〕これであること」の最も経済的な解釈は,基体の実在と定義を表しているというもの。*3この解釈は 76a31-36 とも整合する。後者を「意味表示」と言わない理由は B7 92b4-8 で与えられている: すなわち,τί ἐστι x を知りうるのは x が実在するときだけであり,その他の場合は τί σημαίνει x しか知りえない。従って,証明不可能な原理しか持たない最初の段階では,τί ἐστι を示すのは実在が受け入れられている基体の定義のみであり,属性の定義は τί σημαίνει しか示さない。
  • 「共通の事柄,あるいは論証されている事柄を通じて」διά の意味につき cf. ch.6. ザバレラが指摘するように,Ar. は固有の原理への言及を忘れている。

検討

学問に固有の事柄 (proper things) を基体とその自体的属性 (per se attributes) とに区別する。

Ar. はここで全ての基体の実在が受け入れられるかのように述べているが,B1-2 はある種の基体の実在が証明可能である (基本的な (primitive) 基体と派生的な (derivative) 基体がある) と述べており,やや整合しない。*4

A10 76b11-15

Ar. は 76a37-41 の区別を,76b3-10 に照らして,次のように拡張する。

というのも,全ての論証的知識は,三つのことに関わるからだ――措定された事柄 (これらは類であり,当の類の自体的属性は〔観想的知識〕に属する),公理と呼ばれる共通の原理 (第一である当の公理から〔学問は〕論証する),および第三に属性 (これらのそれぞれが何を意味表示するかを〔論証的知識は〕受け入れる)。

訳注

  • 「公理と呼ばれる共通の原理」: τὰ κοινὰ λεγόμενα ἀξιώματα はこのように理解されるべきである。他の訳は「共通であると語られる公理 (what are called the common axioms)」(Barnes),「いわゆる共通の公理」(Heath),「数学者が共通であると呼ぶ公理」(Ross)。
  • 「第一である当の公理からひとは論証する (from which as primary [the science] forms its demonstrations)」: この翻訳しかありえない。「第一である」は公理が原理であることの強調である (他二つはそれ自体としては原理ではない)。
  • 「これらのそれぞれが何を意味表示するかを〔論証的知識は〕受け入れる」: まさに 76b6-7 の自体的属性。

検討

ここまでの議論の要約になっている。他方,基本的基体と派生的基体の区別はここでも明確でない。

A10 76b16-22

次の一節は一見して例外と思われる事態を処理している。

しかしながら,いくらかの知識がこれらのどれかを無視することを,何ものも妨げない。例えば,〔そう〕あることが明らかであるなら,類が措定されないことがありうるということ〔を何ものも妨げないように〕(というのも,数が〔そう〕あるということと,熱いまたは冷たい〔ものがそうあるということ〕は,同様に明らかであるわけではないから)。そしてそれら〔三つのこと〕が明らかであるなら,属性が「何を意味表示するか」を受け入れないこと〔を何ものも妨げない〕。ちょうど,共通の事柄に関して,「等しいものから等しいものを取り去る」が何を意味表示するかを,〔それが〕認識されているがゆえに,受け入れないように。

だがそれにも拘らず,本性上は,これら三つの事柄がある。〔すなわち〕それに関してひとが証示するところの事柄,それを証示するところの事柄,そこから証示するところの事柄。

訳注

  • 「本性上は」: A2 における「本性上 / 我々に対して」の区別と関連する。
  • 「それに関して」: 単数形であるから,「それ」の指示対象は「類」である。内容上は諸基体と等価。
  • 「それを証示するところの事柄」: 自体的属性。
  • 「そこから証示するところの事柄」: 共通の原理。

検討

後半は同じ内容の繰り返しである。

A10 76a31-36

ここまでの議論は,次の難解な第一段落の理解を助ける。

「各々の類における原理」とは,「ある〔実在する〕ことを証示することが可能ではないようなことども」のことである。なので,「第一の事柄とそこから来る〔派生的な〕事柄とが何を意味表示するか」は受け入れられるが,ある〔実在する〕*5ことは諸原理については受け入れねばならず,他の事柄については証示しなければならない。例えば「単位」が何〔を意味するか〕,「直」「三角形」が何〔を意味するかは受け入れられる〕。*6他方,「単位」や「大きさ」がある〔実在する〕ことは受け入れ〔ねばならず〕,他の事柄については証示し〔なければならない〕。

検討

「単位」と「大きさ」という例が理解に資する。つまり,原理と呼ばれているのは (例外的な語法だが) 実質的には基体である。この点を押さえれば,これまでの論旨に即したものとして読める。

この箇所は A 巻が基本的 / 派生的基体を区別していることの証拠になる。実際 (本来は派生的基体である)「三角形」の代わりに「大きさ」を持ち出しているのは両者を区別するためとも読める。

A2 72a14-24

原理の種類を示すもう一つの重要な箇所は以下である。

無中項の推論的な原理のうち,「措定」とは「証示されないが,何かを学ぼうとする人がそれを持つ必要はない」〔ところの推論的な原理〕のことである。他方,何であれ学ぼうとする人が持つ必要がある〔原理〕は公理である。というのも,こうしたものはいくつかあるから。というのも,とりわけこうしたものをこの名前で我々は呼んできたからである。措定のうちで,矛盾言明の構成部分のいずれか一方を持つ措定は,つまり「何かがある〔実在する〕こと」や「何かがあらぬ〔実在しない〕こと」のことだが,基礎措定であり,それがない措定は定義である。というのも定義は措定であり,算術家は単位が量において不可分であると措定するから。基礎措定はそうではない。というのも,「単位とは何であるか」ということは,単位があるということと同じではないから。

訳注

  • 「無中項の推論的な原理のうち (Ἀμέσου δ᾽ ἀρχῆς συλλογιστικῆς)」: 単数形なのは θέσις (sg.) の定義に登場するから。「措定のうちで (θέσεως, sg.)」も同様の構文。
  • 「つまり「何かがある〔実在する〕こと」や「何かがあらぬ〔実在しない〕こと」のことだが」(οἷον λέγω τὸ εἶναί τι ἢ τὸ μὴ εἶναί τι): (1) οἷον を「例えば」「つまり」のいずれで取るか,(2) εἶναι を「実在する」「そうである (to be the case)」のいずれで取るか,の二点で解釈が分かれる。A10 との整合性の観点からすると各々「つまり」「実在する」で取るのがよい。

検討

  • 原理を措定 (thesis) と公理に二分し,措定をさらに基礎措定 (hypothesis) と定義に二分している。公理は A10 では共通の原理と呼ばれている。従って,両章が同じ話をしているなら,措定とは固有の原理である。
  • 公理は「何であれ学ぼうとする人が持つ必要がある」,というのは文字通りには強い主張だが,APo が「思考に関わる学び」に関わるという点,および恐らくは論証的学問のみが問題になっている点から,解釈上弱められる。Barnes は「P は S の公理である := ひとが S の命題を何か知っているなら,P を知っている」と解釈するが,これは公理が複数の学問に当てはまるという着想を捉えそこねている。*7
  • 「というのも,こうしたものはいくつかあるから。というのも,とりわけこうしたものをこの名前で我々は呼んできたからである。」: Ar. は一般的な語法において「公理」と呼ばれるものに,なじみ薄い特徴づけを与えている。
  • εἶναι を「実在」で取るのは唯一可能な解釈というわけではないが,このように解釈すれば A10 と適合する。
    • 可能な反論1: 「公理・定義・実在主張の三点セットが学問の基礎となりうる」というのは尤もらしくない。
      • だがそれが Ar. の主張である。
    • 可能な反論2: 非実在が基礎措定になるというのは意味が通らない。
      • 自然学の例: 空虚は実在しない。

A10 76b23-34

同じ論点に関して,さらに幾つかの箇所が吟味されなければならない。次の箇所は「基礎措定」のやや非標準的な用法を導入している。

それ自体によって〔そう〕あることが必然的であり,〔それ自体によってそうあると〕思われることも必然的であるようなものは,基礎措定でも要請 (αἴτημα)でもない。というのも,論証は外的な言論 (τὸν ἔξω λόγον) に対してあるのではなく,心の中の理由 (τὸν ἐν τῇ ψυχῇ) に対してあるから。推論もそうであるが。というのも,外的な言論に対して反論することはいつでもできるが,内的な理由に対してはいつでもできるわけではないから。そこで,〔そう〕あることを証示しうるが,ひとが自ら証示することなく受け入れる限りのことどもは,もし学ぶ人に〔証示しうると〕思われ,〔学ぶ人がそれを〕受け入れるなら,基礎措定されている。そして〔これは〕端的に基礎措定であるのではなく,むしろ学ぶ人だけに対する〔基礎措定である〕。他方,いかなる思いなしも内在しないか,反対の〔思いなしが〕内在するのに,同じ事柄を受け入れるなら,〔それは〕要請されている。そしてこの点で基礎措定と要請は異なっている。というのも,学ぶ人の思いなしと反対の事柄が要請であるから――論証可能であるのに,ひとが論証することなしに受け入れ用いるような事柄が。

訳注

  • 基礎措定の話なのだから,「〔そう〕ある」は "be the case" を意味する。
  • 「〔それ自体によってそうあると〕思われる」: たんに「そうあると思われる」だけでは不充分で,「原理であると思われる」ことが重要。
  • αἴτημα はこの箇所が初出。エウクレイデスの術語法とはやや異なる。cf. ch.11.
  • 「学ぶ人に〔証示しうると〕思われ」: 標準的な解釈は「そうであると思われ」だが,証示可能性を述べていると解したほうが文脈に沿う。
  • 最後の ἤ を Hayduck, Barnes に従い削除する。

検討

第一文は原理を基礎措定と区別している。この箇所で基礎措定は「証示しうる」とされるが,これは A2 の規定と異なる。従って異なる意味で用いられていると考えるべきである。「学ぶ人に」云々という一節は教授の場面を想定している。基礎措定であるか,要請であるかということは生徒の態度に依存する。反面,これらは論証的学問の構造の観点からは全然重要ではない規定ということになる。とはいえ,この箇所の重要性は,Ar. が論証と教授の何らかの関係を思い描いていたということを示している点に存するとも言える。

A10 76b35-77a4

さて,定義項は基礎措定ではない (というのも,それらは何であるともあらぬとも言われていないから)。むしろ定義項は前提命題のうちにあり,定義項は理解することだけが必要である。これ〔理解すること〕は基礎措定ではなく (もし聞くことが基礎措定であるとひとが主張するのでなければ),むしろ〔基礎措定とは〕,それらが〔そう〕あるとき,それらがあることによって,結論が生じるところのものである。 また,幾何学者は,ある人々が主張していたように,偽なる事柄を措定するわけではない。彼らは「幾何学者は虚偽を用いるべきではないのに,一プースではないものを一プースであると述べ,あるいは描かれた直線ではないものを直線であると述べて,虚偽を語っている」と言う。だが幾何学者は,自らが呼んでいる線がこうであることによっては,何ごとも結論しない。むしろ,これらから明らかにされる事柄を結論するのだ。加えて,要請と基礎措定は全て,全体〔一般〕としてか,一部分〔特殊〕としてあるが,定義項はどちらでもない。

訳注

  • 「それらは何であるともあらぬとも言われていないから (they are not said to be or not be anything)」: λέγεται (OCT) ではなく λέγονται (mss.) で読む。
  • 「全体〔一般〕としてか,一部分〔特殊〕として」: 普遍-個別の対比であることは広く合意されている (Mure, Ross, Heath, Barnes)。但しいかなる学問的命題も単称命題ではないので,度合いで考えるべきである。

検討

ὅροι と基礎措定が対比されている。ここで ὅροι は完全な定義ではなく定義項 (definientia) (e.g.「人間 := 理性的動物」における「理性的動物」) である。

基礎措定も A2 の意味 (実在主張) とは異なり,より広く推論の前提を指す。これは A10 76b23-34 の用法とも異なる第三の用法であり,論証的学問の理論の外側から導入されたものだと思われる。

A1 71a11-17

だが「予め認識してなければならない」のは二通りである。つまり,あることどもについては「そうある」ことを予め認識していなければならず,別のことどもについては,語られていることが何であるかを理解していなければならない。さらに別のことどもについては,両方〔を理解していなければならない〕。例えば全ての真理は肯定されるか否定されるかであることについては,「そうある」ことを,三角形については,これを意味していることを,単位については両方,〔すなわち〕何を意味表示するかと〔そう〕あることを〔理解していなければならない〕。というのもこれらの各々は我々にとって同様に明らかであるわけではないから。

訳注

  • 「語られていることが何であるか」は「何を意味表示しているか」に等しい。ここでは先述の (76b3-11) B7 の区別は見過ごされている。

検討

LEM は共通の原理の例である (77a22, 88b1)。単位は算術の原理において意味と実在が受け入れられているべき例,三角形は意味が受け入れられているべき例である。これらの例は A2 と A10 の理論を見越しており,単位と三角形は基本的 / 派生的基体の区別の例でもある。

A32 88b27-29

というのも,原理は二通りであるから。〔すなわち〕「そこから」と「それに関して」。「そこから」の原理は共通であり,「それに関して」の原理は固有である。例えば数や大きさのように。

検討

ここには自体的属性が欠けている。また,ここも原理を基体で代表させているが,基体は固有な事物 (ἴδια) であって原理ではない。*8やや不注意な叙述だが,標準理論との本質的な相違はない。

要約

原理の種類についての Ar. の見解は A10 76a31-b15 及び A2 72a14-24 に現れている。三つの種類があり,公理・定義・基礎措定である。基礎措定は実在主張である。公理は共通である点で他二者と異なる。もう一種類が基体と自体的属性の定義である。

*1:Existence claims は ch.10 で主題的に扱われる。

*2:文字通りには属性が ἴδια であるとは別に述べられていないように思う。やや強引か。

*3: (1) 仮にそうだとして,点が実在するというのがどういう意味においてか,それは定義の如何とは別個に言いうることなのか,は問題になるだろう。(2) また,例えば後者について「これ (何らかの具体例) がそれである」という解釈は不可能だろうか。Ar. の τόδε/τοδί の用法を調べる必要があるかもしれない。

*4:この議論はおかしい気がする。前者のようなことを Ar. は何も言っていない。――もしかすると Mc. はこの一節を "ἔστι δ' ἴδια ..." という構文から「proper things (or items) には二通りあり,これとこれである」という意味に解しているのかもしれない。だが (Mc. の訳に反映されていない) 直後の καί からして,ここは正確には「原理のほかにこれ proper (things) である」と述べているに過ぎない。従って Mc. のように Ar. に強い主張を帰するべき理由はない。それゆえ問題なく B 巻に沿った仕方で解しうると思う。

*5:Barnes: "that they are". 「そうある」?

*6:Barnes は 'signifies' を補わない。 "what a unit is or ..."

*7:この反論はよく分からない。

*8:先述したように,ここは怪しい。Mc. は命題と基体を注意深く区別し,Ar. がその点を曖昧にしているとしばしば批難しているが,本当に Ar. がその区別を重要と考えていたかは疑わしいと思う。「実在」という言葉を使うことが本当に適切かという (C. Kahn 的な) 問題とも関連する。