アカデメイアのディアレクティケー実践 Ryle, "Dialectic in the Academy"
- Gilbert Ryle (1968) "Dialectic in the Academy" in G. E. L. Owen (ed.) Aristotle on Dialectic: The Topics. Proceedings of the Third Symposium Aristotelicum. Oxford: Clarendon Press.
主な主張は次の2つ。
- プラトンはアカデメイアで問答法を (したがって哲学を,少なくともアリストテレスが生徒であった頃には) 教えていない。アリストテレスが初めて体系化し,教え始めた。
- 年長者の間で問答法実践は行われており,特に競技的な論争を通じて論証が蓄積された。
どちらもかなり挑発的に見える。さしあたり廣川『プラトンの学園』を確認する必要がある。(I)『ポリテイア』7巻のソクラテスの議論を文字通りにプラトンの意見として取って良いのか,(II) 3節後半の描像はどの程度尤もらしいか,(III) 4節の議論はどうか,はかなり検討の余地があるだろう。また (I) に関連する5節の結論が宙吊りになっているのも少し落ち着かない。
(1)
アリストテレスは恐らく 350 年代半ばにはアカデメイアで問答法を教えており (cf. Isoc. Antid. 258-69, Panath. 26-29, Ep. 5.),また弁論術と関連させて教えていたと思われる。かつアリストテレスは「論理学者」として一般的・専門的な問いに答えようとした最初の人であった (cf. SE, ↔ Dissoi Logoi, Pl. Euthd.)。
(2)
アリストテレスが生徒であった頃,アカデメイアの教程に問答法は含まれていなかったと思われる。――これは意外なことではある。(a) プラトンは哲学と問答法をほぼ同一視していたし,アカデメイアは哲学の学校であるというイメージを私達は有する。(b) また『パルメニデス』にはソクラテスが対話の技術をゼノンから学んだという描写があり,(c) 全初期対話篇および『ポリテイア』第1巻には対話の様子が活写される。(d) そもそもソクラティック・メソッドはプラトンがソクラテスから受け継いだ最大のものである。
だが,『ポリテイア』7巻 (537-9) のソクラテスは,30歳未満の若者が問答法を学ぶことを厳禁している。加えて,以下のことも証拠になる。(a) 「一から問答法の技術を作った」という SE のアリストテレスの主張,及び Top の議論において教育者プラトンの影が見当たらないこと,(b) アリストテレスの術語がプラトンの作品から(後期対話篇にさえ)取られている様子がないこと,(c) SE 182b22-27 の『パルメニデス』篇への言及の仕方。*1 (d) 中期から後期対話篇の殆どにソクラティック・メソッドが見られないこと,(e) 『ブシリス』が言及しているアカデメイアの教程に問答法が含まれていない。
それゆえ,プラトンはアリストテレスに哲学を教えなかった,ということになる。だから「いつ離反したのか」ということはそもそも問題になりえない。"He stood to Plato as Wittgenstein to Frege" (p.73).
(3)
とはいえ,年長者たちは問答法を実践していたと思われる。(a) 哲学の議論はアプリオリにこの形式を取っただろう。(b) 『イデアについて』や EN x の問答法の術語の使い方や,(c) 『イデアについて』の議論の洗練度も,現実の問答法実践の存在を示唆する。(d) Top. 101b22 において,「固有性」は万人に用いられている称号であると述べている。*2 (e) SE は特定のソフィスト的論駁についての対抗する見解を何度か吟味している。(f) Metaph. B のいくつかの難問は特定の同時代人に結び付けられている。(g) Metaph. M 1079b21 でエウドクソスが "ἔλεγε διαπορῶν" したと言われている。
このエレンコス的論争競技において,命題が真であると擁護者が信じている必要はなく,偽であると質問者が信じている必要もない (Top. 163a-b)。アカデメイアでは同じ議論が何度も蒸し返され,ある主張に関する一連の論証・反対論証が洗練され蓄積されていったと思われる (cf. Top. 105b12, 163b17ff.)。
(4)
『パルメニデス』第二部はアリストテレスが『トピカ』を講じ始めるのに応じて書かれたのではないかと推測できる。
(5)
ではそもそも,なぜプラトンは問答法を教えなかったのか,また『ポリテイア』7巻の禁止は何を意味するのか。クセノフォンは三十人僭主による禁止を叙述するが (Xen. Mem. i, 31-38),プラトンやイソクラテスに同様の記述は見出されない。同時代の禁止の5世紀の起源を考案したのであろう。
*1:ライルは "This point has no weight if Aristotle's reference is not to Plato's Parmenides." (p.72) と断っている。実際この箇所は,対話篇ではなく,パルメニデスその人に言及しているようにも読める。
*2:原文は "τὸ δὲ λοιπὸν κατὰ τὴν κοινὴν περὶ αὐτῶν ἀποδοθεῖσαν ὀνομασίαν προσαγορευέσθω ἴδιον." で,ライルは "κοινή" を「一般的な」と解しているようだが,むしろ「共通の」ではないかと思う。「一般的な」と解すると "περὶ αὐτῶν" が浮く。