所謂「海戦問題」解釈をめぐる議論状況 #2

前回 に引き続き,現代における諸解釈を見ていく。

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未来の偶然事をめぐる議論は,ウカシェヴィチの三値論理に関する著作によって復活した。ウカシェヴィチによる定式化には従わないにせよ,現代的解釈の大多数は,DI 9 が PB の制限により運命論を回避することを目指している,とする。(Knuuttila 2015, pp.2-3.) 比較的最近のものとして,本節では Weidemann 2012 の解釈を取り上げる。

ヴァイデマンに従えば,DI 9 の論証構造は以下のように整理できる。但し RCP とは rule of contradictory pairs, すなわち「任意の矛盾言明対について,一方が真であり,他方が偽である」という規則を指す。

  1. 「未来に関する単称言明につき,PB が成り立つ」 (以下 PB_f) ならば,「未来に関する単称言明につき,RCP が成り立つ」(以下 RCP_f)。(18a35-b4)
  2. PB_f から決定論が帰結する。(18b5-17)
  3. 未来に関する矛盾言明対が共に偽であることはできない。(18b17-25)
  4. 決定論から,熟慮の無意味さが帰結する。(18b26-19a6)
  5. しかるに,私たちは現に熟慮に基づいて行為する。(19a7-a22)
  6. よって,RCP_f は偽である。(19a23-19b4)

3 は 2 の補助論証であり,*12, 4 より「PB_f ⇒ 熟慮は無意味である」が帰結する。これと 5 から ¬PB_f を示すことができ,これと 1 から 6 が帰結する。要するに,議論の大枠は 2, 4 と 5 を前提した modus tollens である。

ヴァイデマンによれば,問題は,Ar. が 2 を自明のことと見なしていることである。*2これについては 6 の行論 (とりわけ19a28-39) が若干の解明を与えてくれる。この箇所は Ar. が「幾分実在論的な真理の対応説」 (Ackrill 1963, p.140) を採用していることを示しており,それゆえ PB_f は決定論を導くのである。

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次いで,様相的解釈の代表例として,アンスコムとヒンティッカによる解釈を取り上げる。彼女らの解釈によれば,DI 9 は PB の制限ではなく,むしろ言明の様相を主な論点としている。両者の少なからずエクセントリックな解釈は,互いに読み筋と問題意識を異にする。したがって別々に扱うことにする。

アンスコムの解釈

アンスコムによる DI 9 の解釈のポイントは,次の二点である。

  • Ar. によれば,任意の命題 p につき □(p∨¬p) である。他方,□p∨□¬p は過去や現在の命題についてのみ成り立つ。
  • DI 9の結論は,「〈あることが必然である〉とは,〈あるときに,それが別様であることが示され得ない〉という意味である」ということである。*3

この見通しのもとで,アンスコムDI 9 の論証を以下のように再構成する。

  • □(p∨¬p) と □p∨□¬p の間で両義的に解釈しうるテーゼの提示
  • p → □p の誤った論証の提示――この論証は,上述の意味の必然性と,「端的な」必然性 (不可避性)との混同に基づく。
  • それに基づく □(p∨¬p) → □p∨□¬p の誤った論証の提示
  • p∨□¬p からの,決定論と熟慮の不毛さの導出
  • 両義性の解消

ややこしいが,一言で言えば,□(p∨¬p) と □p∨□¬p の混同が決定論という不条理な帰結をもたらすことが示され,次いでその混同が解消される,という行論になっている。*4

ヒンティッカの解釈

ヒンティッカは,DI 9 の議論の弁証術的な側面に注目する。*5彼によれば,DI 9 は次のような構成になっている。

  1. 決定論的見解の擁護 (18a35-18b16)
  2. 代替的な解決法の拒否 (18b17-18b25)
  3. 決定論的見解の帰結の詳述 (18b26-19a6)
  4. 決定論的見解の奇妙な帰結の提示 (19a7-22)
  5. 解決 (19a23-19b6)

つまり,DI 9 は決定論的見解 (1-3) とそれに対立する見解 (4) を調停することを目指している。後述するように,ヒンティッカはとりわけ 5 に関して詳細な分析を行っている。

ヒンティッカは伝統的解釈を明示的に斥け,代わって,DI 9 の論題は指標詞の問題である,という独創的解釈を提示する。Ar. は言明の例として,「いついつ,どこどこで,ソクラテスは眠る」という (客観的な時系列と結びついた) 文の代わりに,「ソクラテスはいま眠る」という種類の,指標詞を明示的・隠伏的に含む文を取り上げる傾向にある。つまり,

  • 時点 t_0 において p

という形式の文ではなく,

  • (今) p

という形式の文を考えようとする傾きが見られる。

そして DI 9 において,両者の相違から生じる困難が表面化する。すなわち,Ar. は「必然」を「全時間的 (omnitemporal)」の意味に解するので,前者の形式の文は必然的に真であることになり,未来についての全ての言明が必然的に真または偽であることが帰結する。

とりわけ 19a23-7 がこの解釈の根拠を与える。すなわち "ὅταν (μὴ) ᾖ" (19a23f.) は時間的制限を意味しており,ここで Ar. は「時点 t において p であることは必然である」という形式の文と「p は必然である」という形式の文を区別していることになる。このうち前者を認め,後者を認めない,という仕方で,Ar. は決定論的見解の当否を整理する。同様の論点を,Ar. は次いで未来の矛盾する事態 (19a27-32),および矛盾言明の対そのもの (19a32-b4) に適用する。*6

*1:但し Weidemann 2012 は 3 の位置付けについて明確に述べてはいない。なおウィッタカーは,この箇所は PB を暗黙の内に用いていると指摘し,伝統的解釈を批判する (Whitaker 1996, p.117)。この指摘自体は正しいが,ヴァイデマンのように帰謬法の仮定として PB_f が前提されていると解釈するなら,特に問題にはならないだろう。

*2:アンスコムはむしろこの箇所に論証上重要な役割を与える。この辺りにアクセントの置き方の違いが見て取れる。

*3:この必然性概念の出所はウィトゲンシュタインである。cf.『論考』5.1362.

*4:前回の記事で,DI 9 の論証が「決定論が偽であることを前提した帰謬法である」という見解を様相的解釈に帰したけれども,アンスコムの解釈についてもこの表現は不正確であると思う。それゆえこれは撤回する。

*5:この点に関してヒンティッカは Owen, "Tithenai ta phainomena" の参照を求める。

*6:尤もヒンティッカ自身は,正当にも,これによって Ar. が決定論の困難を免れ得たとは考えない。