Resp. I 関連諸論文 #2
- J. Annas, An Introduction to Plato’s Republic, Clarendon Press, 1981, pp.34-58.
- G. B. Kerferd, “The Doctrine of Thrasymachus in Plato’s ›Republic‹” In Sophistik, C. J. Classen (ed.) Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1976, 545-563. [Reprint of ibid. Durham University Journal 40 (1947):19-27.]
レポート準備で読んだ文献の覚え書き。前回同様、特にトラシュマコス関連のもの。
Kerferd
トラシュマコスの教説について論じる(多分)古典的な論文。初めにありうる(ないし伝統的な)四つの解釈を掲げる。
- 道徳的責務は実在せず、心のなかの幻影にすぎない(倫理的ニヒリズム)
- 道徳的責務は法の制定を離れてはなんら実在を持たない(法至上主義)
- 道徳的責務は独立した実在であり人間本性から生じる(自然権)
- ひとは事実つねに自己の利益を追求し、また本性上それが必然である(心理的エゴイズム)
このうち 4 は 1-3 とやや水準をことにする。Kerferd 自身は結局 3 を擁護する。だがトラシュマコスが演説を始める(343c1-344c8)までは 1-3 はいずれもありうる解釈に思われる。この演説の意義は従来見過ごされてきたが、以下の点で重要である。
まず、トラシュマコスは伝統的な「正義」の定義をひっくり返したのだ、と考えると解釈に不整合が生じる。すなわち、以下のように考えることはできない:
- トラシュマコス自身の用語法:
- 正義: 強者の利益・弱者の不利益
- 不正: 強者の不利益・弱者の利益
- 伝統的な用語法
- 正義: 強者の不利益・弱者の利益
- 不正: 強者の利益・弱者の不利益
むしろ、演説を踏まえれば次のように考えるべきである:
正義: 他人の利益(支配者にとっては他人の利益、被支配者にとっては強者の利益)and vice versa.
したがって、冒頭でトラシュマコスが正義を「強者の利益」であると述べたのは、何ら正義の定義ではなく、新奇な言説によって人々の耳目を集める方便にすぎない。
明快な議論だが最終的な「正義」の定義はやや人工的な感が否めない。実際これに対する不満も表明されてきた(たまたま見かけた例だと M. McCoy, Plato on the Rhetoric of Philosophers and Sophists, p.116)。
Annas
対話篇を叙述の展開に沿って解説しながら、トラシュマコスにいかなる立場を帰するべきかを論じる。要約できるほど読めてないけれど、いくつか気になった点を箇条書きする。
- Annas はトラシュマコスの主張の解釈について conventionalism vs. immoralism という対立軸を設定する(概ね Kerferd の 2 と 3 にそれぞれ対応していると考えて良いように思われる)。Annas は結局 immoralism を擁護する(したがって Kerferd に同じ)。
- 「正義」は他者にとっての善である、というトラシュマコスの規定は、「強者の利益」説の expansion である(p.45)。ここもやはり Kerferd 説に近い。
- 第一巻後半のソクラテスの反論はどれもいまひとつ弱い。おそらくプラトン自身そのことに気づいていたと思われる。トラシュマコスがだんだんやる気を失い、ソクラテスだけが対照的にどんどん真剣になっていく、といった描写もこのことを示唆する。同様の例はゴルギアスにも見られる。