『ティマイオス』はなぜ対話形式でないのか Johansen, Plato’s Natural Philosophy #2

  • Thomas Kjeller Johansen (2004) Plato's Natural Philosophy: A Study of Timaeus-Criti.tias. Cambridge University Press.
    • Ch.9: "Dialogue and Dialectic", 177-197.

Timaeus-Critias は対話篇と呼ばれるが,Tim. の 5/6 はモノローグであり,Criti. も同様である。この比率は (Menex. を除き) 他にない。何が起きたのか? これを対話篇と呼んでよいのか,よいとすればなぜか? 対話形式の排除は探究の性質と関係するのか? 問答法によってプラトン哲学が特徴付けられるとすれば,ここでプラトンは哲学観を変えているのか? そうだとすれば,なぜ本作でなのか?

対話

プラトン作品には少なくとも四種類の対話がある。

  1. 作品内の登場人物の対話 (e.g. Phd. のシミアスとケベス)。
  2. 会話についての語り手と聴衆の対話 (e.g. Phd.パイドンとエケクラテス)。
  3. プラトンと彼の著作内の登場人物の対話 (e.g. プラトンソクラテス)。
  4. プラトンと彼の著作の読者との対話。

Tim. はこのうち 2-4 の要素を有している。4: 冒頭における Resp. の参照 (dramatic date とは整合しない)。3: プラトンソクラテスを主要話者にしなかったのは,他のソクラテス表象に制約されているからである。2: クリティアス,ソクラテスティマイオス,ヘルモクラテスの対話が演説の枠付け (framing) の役割を果たす。だが問題にしたいのは 1 である。ティマイオスの演説中,聴衆は静聴している。聴衆の静聴そのものは対話篇において珍しくないが,ふつうは対話を静聴している。特に Prot., Grg. で長い演説が弁論術と結びつけられソクラテスの好む哲学的対話と対比されたことを考えると,独白形式はなおさら奇妙である。

独白形式についてまず三つの説明を考えてみる。以下の三つは,しかし,どれもそれ自体では不十分である。

  1. Tim.-Criti. は頌歌 (encomia) だから。–– だが Symp. にもソクラテスのエロース頌がある。
  2. ティマイオスの議論はミュートスだから。–– だがクリティアスのロゴスも独白形式である (cf. 27a2-b6)。
  3. 後期対話篇に属するから。–– とはいえ他の後期対話篇も依然として対話をしている。

むしろ J. の考えでは Tim.-Criti. の独白形式は主題に由来する。

まず話者たちの登場の仕方から考えよう。彼らは自分たちがソクラテスを宴においてもてなす主人であると言う。昨日言論によってソクラテスによりもてなされた分のお返しである。連続的な対話の互酬性が,系列をなす独白の互酬性へと置き換わっている。そして仕事の分担は個々の話者の持つ知見 (expertise) を反映している。各々の演説は教示的 (didactic) である。Soph. 217c-d で,エレアからの客人は,ξενία が確立していない (つまり独白が返礼として機能しない) 場合は会話がより相応しいという趣旨のことを述べる。Tim. ではこれは確立している。だが客人は次いで回答者が協力的である (obliging) 場合は対話の方が用意であるとも述べる。Tim. でも協力的なはずであり,ここでよく分からなくなる。なぜティマイオスはより容易な形式を採らなかったのか?

これに答える前にティマイオスの演説の構成について見ておこう。この演説は予め準備されている。構成全体は (a) 物体と魂の区別,(b) 不死の生き物と可死の生き物の分割 (およびさらに細かい分割),によってなされる。特に人間本性の説明は分類学的に行われる。また順序にもしばしば注意する。

なぜ秩序立てることにこれほど注意を払っているのか?––おそらく,自らの演説を主題である秩序づけられた宇宙となるべく似たものにするためである。言論と主題の類似は「ありそうな言論」についての冒頭の方法論 (29b4-c2) で言われる。また宇宙の τέλεος なること (30c2-31b3) を示したときに言論の τέλος は達成される (92c4-9, ここは 30c2ff. と ring composition をなす)。これに加えて,「満たす」(→ 残りの者どもが義務を果たす)「一・単一」(→ 冒頭の εἷς) にも対応を見出せる。

別の言い方をすれば,製作者による宇宙創造とティマイオスの演説はともに目的論という原理によって導かれている。結論において宇宙は「可視の生き物」と呼ばれるが,一方で言論が生き物のようであるべきという Phdr. 264c の原則は Tim. にも見出される。「最後の部が頭でもあり,これがそれまでの議論と調和していなければならない」(69a-b) という主張において最も明示的である。議論のサイズの釣り合いにはしばしば言及されるが (90e1-6, 38d6-e2, 54a5-b2),こうした考慮は文学的構成の目的論的原理の表れなのである。作品の美しさ・釣り合い・完全性が問題になるのは,それなしには秩序ある宇宙をよく表せないからである。

そうだとすれば,ティマイオスの議論は全体としてしか評価できない。問答方式はすると不適当であり,むしろ独白形式が相応しいということになる。結局,Tim.-Criti. における対話の不在は,プラトン的対話の放棄を意味しない。むしろプラトンは主題に合わせて形式を柔軟に切り替えたのである。